ジャービル家とサーリム家という2つの首長家から交互に首長を輩出する(近年はジャービル家に固定しつつある)。ちなみにこの両家は共にサバーハ家が始祖。 共和制であるものの、4大首長家から5年任期の国家元首(オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー)を議会が指名する。 マレーシアの国王は5年の任期を持ち、マレーシア連邦を構成する13州のうち9州の君主である9人のスルターンの互選制である。ただし、各スルターンが輪番で国王に選ばれることが慣行となっている。ヌグリ・スンビラン州では、スルターンが州内の地域首長の選挙で選ばれ、その地域首長もまた地域内の長老により選出される。 同様に、厳密な意味での君主制とはいえないが、カトリック教会の枢機卿がコンクラーヴェで互選して選出されるローマ教皇を元首とするバチカン市国も選挙君主制に類似した体制を持つ国家である。 このほか、デンマーク、スペイン、オランダ、ノルウェー、ヨルダンでは、王位継承権をもつ者が絶えた際に議会が後継の国王を選出する(王家が切り替わる事もあり得る)ことが定められている[1]。 王政ローマでは王は終身だが世襲ではなく、原則として市民集会が選挙でローマ市民権を持った者の中から選出した。選出は必ずしも家系や身分によらず、市外の者が選出された例もある。王の一族は貴族(パトリキ)となる。ローマ帝国やビザンツ帝国においてもローマ皇帝は元老院により選出される第一の市民(プリンケプス)とされ、前皇帝との血縁は必要とされなかったため選挙君主制の一形態とされている。 モンゴル高原の遊牧民の間ではクリルタイにより部族の代表者たるハーンを選出する伝統があり、モンゴル帝国においてもチンギス・カンは一族や有力部族長の推戴を得て皇帝(カアン、ハーン)に選出されている。後のカアンは全員チンギス・カンの子孫の中から選ばれているが、カアン継承には長子相続や末子相続のような決まったルールは無く、クリルタイで帝国内の支持を集めた人物が選出されていた。 神聖ローマ帝国、ハンガリー王国、ボヘミア王国などは公式には選挙君主制を維持していたが、後にハプスブルク家が君主位を独占するようになり実質的な世襲君主制として機能していた。神聖ローマ帝国は、選挙で選ばれたローマ王がローマに赴いて教皇から戴冠されて帝位を兼ねる体制であった。このため、皇帝が帝位を維持したままローマ王選挙で嫡子を選出させる方法も利用された。ただし三十年戦争時のフリードリヒ冬王やオーストリア継承戦争時のカール7世などハプスブルク家以外から選出された例もある。 ヤゲウォ朝断絶後のポーランド・リトアニア共和国では法的にも実質的にも選挙君主制が行われており、国王自由選挙により国内外の有力者が国王に選出された。これは大貴族(マグナート)による実権の掌握と王権の著しい弱体化につながり、諸外国の干渉も招いた。そのため末期には改革の動きもあったが、第3次ポーランド分割によって国家そのものが消滅することで終焉に至った。
サモア
マレーシア
その他
選挙君主制をとった現存しない国の主な例
古代ローマ
モンゴル帝国
ハプスブルク君主国
ポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国最後の国王スタニスワフ2世を選出した国王自由選挙(1764年)詳細は「国王自由選挙」を参照
脚注^ 諸外国における王位継承制度の例
関連項目
国王自由選挙
コンクラーヴェ
君主制
立憲君主制
絶対君主制
専制君主制
世襲君主制
選帝侯
クリルタイ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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