選帝侯
[Wikipedia|▼Menu]
「選定」との語は、当時のローマ王の選挙手続において「選挙」(Wahl)と「選定」(Kur)が法的に区別されており、選帝侯が担ったのは後者であったことによる。なお、1508年マクシミリアン1世が教皇に戴冠されることなく皇帝を称し、その後の皇帝もこの例にならうこととなったため、実質的には「選帝侯による選出」イコール「皇帝即位」となった。

選帝侯の「侯」は侯爵ではなく「諸侯」(皇帝に従う封建領主)を意味している。なお、実際の地位は宮中伯辺境伯方伯大司教であった。しかし、時代が下がると選帝侯の地位そのものが領主の称号のように扱われるようになった。
歴史

ローマ王(ドイツ王)の選挙は1198年から1792年まで行われた。1198年、ローマ教皇インノケンティウス3世ヴェルフ家及びホーエンシュタウフェン朝のローマ王位争いについて、ライン川流域の4人の選帝侯、すなわちマインツ大司教ケルン大司教トリーア大司教ライン宮中伯の賛同が不可欠であると定めた。ライン宮中伯の選帝権はバイエルン公と交代で行使された。

1257年以来、選帝侯会議は上記の4人とザクセン公ブランデンブルク辺境伯の合計6人によって占められ、これに1289年ボヘミア王が加わって7選帝侯となった。1356年カール4世が発した金印勅書によって、この顔ぶれと選挙の手続き、選帝侯の特権が法的に確定した。なお、カール4世の当選に貢献したマインツ・ケルン・トリーア大司教の功績を称えて、ライン宮中伯をふくめた4選帝侯領でライングルデンが鋳造されるようになった。

1485年にザクセン公であったヴェッティン家エルネスティン家アルベルティン家に分裂する(ライプツィヒの分割)。エルネスティン系の選帝侯ヨハン・フリードリヒ1531年に結成されたシュマルカルデン同盟の主導者の一人となり、1546年には皇帝カール5世に宣戦布告した(シュマルカルデン戦争)。シュマルカルデン戦争において、ヨハン・フリードリヒは、又従弟に当たるアルベルティン家のモーリッツの裏切りによって、1547年のミュールベルクの戦いに敗れて捕縛され、テューリンゲン地方を除いて所領を剥奪された。戦後、モーリッツは皇帝からザクセンの領地と選帝侯を授かる。これ以降、ザクセン選帝侯位はアルベルティン家が継承してゆく。なお、シュマルカルデン戦争の戦後処理の苛烈さに不満を抱いたモーリッツはカール5世に反旗を翻すが、皇太弟フェルディナントパッサウ条約を結んで和解している。

1618年プラハ窓外投擲事件をきっかけとして新教派のベーメン貴族達はプファルツ=ジンメルン家のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王に選出する。これにより、ベーメン・プファルツ戦争が生じる。1623年、ベーメンを平定してフリードリヒ5世を追い払った皇帝フェルディナント2世は、フリードリヒ5世のライン宮中伯位と選帝侯位を剥奪し、同じヴィッテルスバッハ家バイエルン公マクシミリアン1世に与えた。この行為は帝国諸侯の反発を買うことになったが、1648年ヴェストファーレン条約において、オーバープファルツと選帝侯位の移動が認められた。この条約では、同時にフリードリヒ5世の子カール1世にライン宮中伯位の継承と新たな第8の選帝侯の地位が認められた。また、この三十年戦争ハプスブルク家が帝国全体を考えた政治をしなかったために、ライン宮中伯とブランデンブルク辺境伯の2選帝侯が婚姻政策を通じてオランダ共和国オラニエ=ナッサウ家に接近し、自律性を高めた。ブランデンブルク辺境伯はロシアにも接近していた。

1692年に、ヴェルフ家の後裔ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家カレンベルク侯エルンスト・アウグストオランダ侵略戦争大トルコ戦争の功によって、皇帝レオポルト1世から9番目の選帝権を与えられた。エルンスト・アウグストの息子ゲオルク・ルートヴィヒ1708年帝国議会においてブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯(通称ハノーファー選帝侯)として、正式に選帝侯の地位が認められた。この出来事はプロテスタントへの宥和策のとしての側面もあった(当時、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世がカトリックに改宗し、8人の選帝侯のうち、プロテスタントはブランデンブルク選帝侯のみであった)。これにより、ゲオルク・ルートヴィヒは散り散りになっていたブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領の大半をまとめることに成功した。

1700年前後には、世俗選帝侯による帝国外での王位獲得の動きが盛んになる。1697年にはザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世ロシアオーストリアの支援を得てポーランド・リトアニア共和国の王として即位した。翌1698年にはバイエルン選帝侯の長子ヨーゼフ・フェルディナントが子のいないスペイン王カルロス2世の後継者としてアストゥリアス公となり(スペイン王となることなく夭折)、1701年には17世紀末からイングランドの王位継承の有力候補と目されていたハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが、王位継承法によって正式に実母ゾフィーに次ぐイングランドの第2位の王位継承者となった。同年、プロイセン公でもあったブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が、スペイン継承戦争での援軍の見返りとしてレオポルト1世から王号を許され、ケーニヒスベルクで「プロイセンの王」として戴冠した。1714年にはゲオルク・ルートヴィヒはグレートブリテン王となり、ジョージ1世としてハノーヴァー朝を創始した。

スペイン継承戦争では他に、フランス側に就いたバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルとその弟ケルン選帝侯ヨーゼフ・クレメンス帝国アハト刑を言い渡され、選帝権が停止された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef