遣唐使
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

注釈^ 遣隋使の留学生の622年の帰国者の薬師恵日らが、「唐国は法式備定の宝の国だから通交すべきだ」と上奏しており、それも受けた開始とされている[3]
^ 唐国側が朝貢された「調布」と記された布にその律令制的な名前に疑義が生じ日本での律令制施行を知らない(『旧唐書 日本国伝』)[55]
^ 大使と副使は遣唐使の代表と副代表、判官は一行のまとめ役、知乗船事は4隻の船の責任者、船師はそれぞれの船の責任者、史生と議事は文章の記録と編纂、雑使は船内の雑役係、{人は大使らの身の回りの世話係、挾杪と柁師は船の舵取りとその責任者、水手は船を漕ぐ係、留学生と学問僧は長期間唐に留まって勉学し{従が彼らの世話係、請益生は勉学にあたるが遣唐使と共に帰国する[72]
^ ただし、その根拠としては衛禁律に求める説と賊盗律謀叛に相当するとみる説がある(榎本淳一「律令国家の対外方針と〈渡海制〉」(『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年(原論文:1991年)) )。
^ 養老律令の関市令の国家による交易先買権の規定の存在から民間貿易の存在を前提にしていたという説もあるが、『延喜式』における同令の解釈においても大蔵省や内蔵寮の属官が関与することが前提となっているため、同令の交易の規定は外国からの使節が日本の都にて交易を行う際の規定であり、実際には民間貿易が大宰府などで行われていた『延喜式』の時代になっても制度上は民間貿易は存在しないことになっていたという見方もある(榎本淳一「日本古代貿易管理制度の構造・特質と展開」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年 ISBN 978-4-88621-862-9 P149-152. )。
^ ただし、実際の受け入れ先となった大宰府における対外業務は外国使節への対応と海外からの帰化に関する職掌しか与えられていなかったため、外国商船の来航については「帰化」の規定を拡大解釈することになった(榎本淳一「日本古代貿易管理制度の構造・特質と展開」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年 ISBN 978-4-88621-862-9 P150-152. )。
^ 「年紀制」違反による処分は、滞在中の供給(滞在費用)支給拒否と朝廷との取引停止の効果しかなく、個々の貴族や寺社・商人との取引までを禁じたものではなかった。このため、「年紀制」制定意図を朝廷による唐物交易と財政支出の抑制とみる考えもある(渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」 [要ページ番号])。
^ 唐宋商人の中には来航後、長期にわたって博多の唐坊を拠点に貿易・商業活動を行い、次の年紀到来直前に帰国して「年紀法」に違反しない形で再度来航する者もいた[要出典]。

出典^ 西嶋定生 1985, p. 148.
^ 石井正敏 2011, pp. 118?124、以前の菅原道真建議での廃止説を遣唐使・副使後年の使用を指摘して覆し、定説となっている。
^ 石井正敏他(編) 2011, pp. 38?39、森公章「東アジアの変動と日本外交」
^ 石井正敏他(編) 2011, pp. 59、62、218、古瀬奈津子「隋唐と日本外交」、石田実洋「留学生・留学僧と渡来した人々」
^ 石井正敏 2018, pp. 28?35、「遣唐使の貿易活動」
^ 東野治之 2007, p. 120.
^ 西嶋定生 1985, pp. 102?104.
^ 『旧唐書』巻一百九十九、東夷伝、倭国条
^ 『新唐書』
^ 『日本書紀』孝徳天皇白雉4年7月条
^ 『日本書紀』孝徳天皇 白雉5年7月24日条
^ 『旧唐書』高宗本紀
^ 『日本書紀』斉明天皇元年8月1日条
^ 『日本書紀』巻二五白雉五年二月条「定惠以乙丑年付劉徳高等船歸」
^ 『日本書紀』天智天皇6年11月9日条
^ 『日本書紀』天智天皇10年3月3日条
^ 坂本,平野[1990: 245]
^ 多治比縣守の親は左大臣、大伴山守の親は右大臣、藤原馬養の親は太政大臣藤原不比等、阿倍仲麻呂の祖父は将軍阿倍比羅夫、と、構成員も豪華である。
^ 735年(天平7年)、朝廷は遣唐使の利便のため、南島(奄美諸島など)に碑を建てさせた。碑には島名と停泊地、水の補給場所が記されていた。また、遣唐使一行に奄美語の通訳を同行させることとした。この碑の現物は見つかっていない。 - 『延喜式』第50巻(雑式)
^ 『遺教経』跋語(石山寺蔵)
^ 唐人の皇甫東朝道?袁晋卿、波斯(ペルシャ)人の李密翳インド人の菩提僊那(のち東大寺の大仏開眼式に参加)、菩提僊那の弟子で林邑国の仏哲など
^ 『続日本紀』天平勝宝6年正月30日条)
^ 『続日本紀』天平宝字6年3月1日条
^ 高麗大山の弟
^ 『続日本紀』天平宝字6年7月是月条
^ 『続日本紀』宝亀9年11月13日条
^ 『続日本紀』宝亀9年11月10日条
^ 『続日本紀』宝亀11年正月5日条
^ 『続日本紀』宝亀10年2月13日条
^ 『続日本紀』宝亀10年7月15日条
^昆解宮成」参照
^ 『日本後紀』延暦24年6月8日条
^ 『日本後紀』延暦23年9月18日条
^ 『日本後紀』延暦24年7月16日条
^ 渡辺照宏宮坂宥勝『沙門空海』筑摩叢書 1967年 pp.69、242
^ 当時の寿命と入唐人員の選任基準から鑑みると、誤伝の可能性が高い。
^ 渡辺照宏宮坂宥勝『沙門空海』筑摩叢書 1967年 pp.87-92
^ 前回の遣唐使であった菅原清公の三男
^ 18回の伴雄堅魚の甥
^ 『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条
^ 『続日本後紀』承和3年5月18日条
^ 『続日本後紀』承和6年3月丁酉条
^ 『続日本後紀』承和6年10月9日条
^ 『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年4月1-4日条
^ 『続日本後紀』承和3年12月3日条
^教訓抄
^ a b 滝川幸司 2019, p. 165.
^ 滝川幸司 2019, p. 171-173.
^ a b c d e f 榎本淳一「遣唐使と通訳」(『唐王朝と古代日本』(原論文:2005年)) [要ページ番号]
^ 西嶋定生 1985, pp. 103、162-163.

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:141 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef