遣唐使
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東漢長阿利麻坂合部稲積ら生き残った5人は島民の船を奪って脱出に成功し、大陸の括州(現在の浙江省麗水)に至り、役人に護送されて洛陽に運ばれた。その後どうなっていたかは不明だが、長安の2船の一行同様、洛陽にて抑留されていたと推測される。前述の通り、監禁が解け洛陽に移動した津守吉祥らと5人は10月19日に再会した。11月1日、国が滅ぼされ捕虜となった百済義慈王ら王族・貴族の50人(『旧唐書』では58人)が唐の朝廷に護送されるのを目撃している。同24日、長安を出発。翌661年4月1日に越州から帰国の途についた。同7日、舟山郡島の須岸島南岸に到着した。翌8日夜明けに出発するも、暴風に遭い9日間漂流した。耽羅済州島)に漂着し、耽羅国王子の阿波伎等9人を伴って帰国(『遣耽羅使』も参照)。東漢草足嶋は帰路で落雷により死亡。この回の遣唐使に関しては、『伊吉博徳書』・『難波吉士男(津守吉祥)人書』が日本書紀に引用されたために道中が比較的詳しい。
5天智4年
665年)天智6年
667年守大石(送唐客使)・坂合部磐積・吉士岐彌・吉士針間665年秋に留学僧の定恵郭務?を伴い、250余人の大使節団と共に来日した唐使の劉徳高らを送る使節であり[14]、同年12月に出立した。送使であるが、旧唐書本紀などに拠れば高宗の封禅の儀(即位式)への参列を求めた使節であるとされる。翌666年1月に封禅の議は既に行われており、道中日程を考えれば時機を逸しているが、劉徳高に比べ守大石の官位がかなり高いこと、劉徳高が封禅の儀の会場である泰山に近い地域の役人であったことなどから、送使とは言いつつ、式典参列を意図した使節である可能性が高い。これは白村江の戦い以降に悪化していた唐との関係改善を、日本側が求めていた動きであると推測される。667年11月、唐の百済鎮将(旧百済占領軍)の劉仁願が派遣した文官(熊津都督府熊山県令)の司馬法聡と共に帰国。ただし帰国の際の代表は坂合部磐積となっており[15]、守大石は唐に留まったか、現地で死亡したと推測される。
(6)天智6年
667年)天智7年
668年伊吉博徳(送唐客使)副使・笠諸石。同年11月9日に来日した唐使の司馬法聡の帰国(熊津都督府=旧百済国の占領地へ帰還)を送る使節で、11月13日に任命。唐本土には行かず?
7天智8年
669年)不明河内鯨(大使)(黄文本実)唐に高句麗平定の祝賀を述べる使節と推測される。第5次から第7次は、唐との交渉のためとする。この時期、日本と唐は、唐の対新羅問題を巡って軍事的緊張が続いている。黄文本実はこの回に渡航したと推測されている。唐の王玄策天竺インド)に使節で赴いた際に転写し持ち帰った仏足石図を、黄文は長安の普光寺で再転写し、日本に伝えたとされている。黄文が671年に天皇に献上した土木・建築に用いる水?(みずばかり=水準器)についても[16]、同じく唐より持ち帰った物と推測される[17]
8大宝2年
702年)慶雲元年
704年粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使、赴任せず)・坂合部大分(副使、のち大使)・巨勢邑治(大位、のち副使)賀茂吉備麻呂(中位・判官)・山上憶良(少録・歌人)・大津広人(垂水広人)(大通事)・道慈弁正4701年に粟田真人を執節使(大使より上位)として任じられるも風浪が激しく渡海できず。翌702年6月に改めて出立するも、高橋笠間は別の任(大安寺造営)に充てられ渡航せず、元副使の坂合部大分を大使とした。701年の出立の際に参議という高職となっていた粟田は、文武天皇から節刀を授けられた。これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例とされる。粟田は自らも編纂に関わった大宝律令を持参していた。初めて対外的に「日本」の国号を使用し、首都(藤原京)を定め造営したこと、法である大宝律令を制定したことを示し、国としての体裁を上昇させた上で、白村江の戦い以来の正式な国交回復を目的としていた。この目的のため、朝廷での格も高く、大宝律令の編纂に関わった粟田が使節として派遣されたと推測される。一行は楚州に到着し、どこからの使者か、との問いに「日本」と返答している。当時、唐は武則天(則天武后)の簒奪により周王朝となっていたが、この社会混乱を把握していなかった遣唐使一行は混乱するも、703年に武則天と謁見した。粟田真人らは慶雲元年(704年)7月、白村江の戦いで捕虜になっていた者を連れて五島列島福江島に漂着帰国した。副使の巨勢邑治は残留し707年3月に帰国した。大使の坂合部大分も残留し、次の遣唐使の帰国船に同行した。この遣唐使一行が、唐の地で実運用されている律令制や都市作りを実際に目の当たりにし、唐の官僚らのアドバイスを得たことが、大宝律令の修正や貨幣鋳造(和同開珎)などの慶雲の改革、新都平城京への遷都などに繋がった。また、無事往復に成功した粟田真人の乗船「佐伯」に対し、従五位下の位が授けられた。弁正は囲碁の名人であり、唐の皇子李隆基(のちの皇帝玄宗)に度々称賛された。そのまま還俗し唐にて子を成し、死去した。
9養老元年
717年)養老2年
718年多治比縣守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(藤原宇合)(副使)残留 阿倍仲麻呂吉備真備玄ム井真成羽栗吉麻呂(阿部仲麻呂の従者)、播磨弟兄播磨乙安?、鋳生)4前回の倍以上となる総勢557人[18]。霊亀2年(716年)8月に縣守が押使に任命され、翌霊亀3年(717年)3月に節刀を授けられている。よって出発は以降の日付となり、南路を選択したと推測されている。716年9月、阿倍安麻呂に代えて大伴山守が遣唐大使となる。717年10月1日長安に到着した。残留した留学生を除き、翌年の養老2年(718年)10月に使節の主だった者は全員無時に大宰府に帰還に成功した。同行して前回の留学僧であった道慈も帰国。同年12月に県守は朝廷に復命し、翌年正月10日に帰国した一同が唐で与えられた朝服で天皇に拝謁した。藤原馬養は唐滞在中に「宇合」と名を改めた。播磨弟兄は725年に、唐から持ち帰った甘子の種子の栽培に成功したとして昇進されている。
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