堺筋の日本橋北詰交差点北東角に「贈従五位安井道頓、安井道卜紀功碑」とある石碑が建立されている[8]。裏面には西村天囚による顕彰文が刻まれている。またこの向かい側には小野十三郎の「たたずめば、思いははるかわが川」に始まる詩碑が立てられている。 幸田成友によると、1612年(慶長17年)に南端が堀止になっていた東横堀川と西横堀川を結んで木津川へ注ぐ堀川の開削が開始され、摂津国の清和源氏の一流である河内国の河内源氏の流れを汲む畠山氏の一族、河内国渋川郡久宝寺(または、摂津国住吉郡平野郷)出身で安井道頓(成安道頓)が新川奉行に任命された。しかし、大坂の陣で道頓が戦死したため、従弟の安井九兵衛(安井道卜(どうぼく))や安藤藤次(平野藤次)らが引き継ぎ、1615年(元和元年)に完成した。当初は新堀・南堀川・新川などと呼ばれていたが、大坂城主の松平忠明が道頓の死を追悼し、また、相当な私財が投じられたことや功績に鑑み「道頓堀」と命名した[9]。 「大坂濫觴書一件」では、道卜が合戦後の工事再開の認可を受けた際、徳川氏からの人夫提供の誘いを断り、久宝寺から百姓を呼び寄せ、自らの手で工事を完成させたとあり、安井家の富豪のほど、また当時の町人の心意気を偲ばせる記述となっている。この開堀では両岸の開発も行われ、道頓堀川八丁が誕生。「九郎右衛門町」、「宗右衛門町」などの人名のついた各町は安井家出入りの百姓で、この時開発の衝にあったものの名に因んだものである。 道卜は振興策として、南船場の塩町通付近に形成されていた芝居町を道頓堀川の南岸に移転させた。当初は道頓堀通の北側に川を背にして芝居小屋が立ち、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎が行われていたが、前者は1629年(寛永6年)に、後者は1652年(慶安5年)に禁止された。1653年(承応2年)に芝居名代5株が公認され、興行権免許の印として櫓を正面に掲げた劇場が道頓堀通の南側に立つようになり、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられた。 1707年(宝永4年)10月の宝永地震および1854年(嘉永7年)12月の安政南海地震では、大阪湾に押し寄せた津波が河川を遡上し、道頓堀付近まで水没したと伝えられている[10][11]。 明治初頭には、東から高津五右衛門町、道頓堀立慶町、道頓堀吉左衛門町、道頓堀九郎右衛門町となっていた。 道頓堀開削とともに成立した8町。島之内南端の北岸に西から久左衛門町・御前町・宗右衛門町・大和町。芝居小屋が並ぶ南岸に西から湊町・九郎右衛門町・吉左衛門町・立慶町。現在も宗右衛門町と湊町の2町名が残っている。 戎橋南詰から東側にかつて存在した浪花座 昭和初期までにこれらの劇場はすべて松竹の経営に移り、一部は映画館に転向した。第二次世界大戦後、朝日座が東映に売却され大阪東映劇場(後に道頓堀東映と改称)となる。弁天座は文楽座と改称され、人形浄瑠璃の常打劇場となるが、やがて人形浄瑠璃は松竹の手を離れ、朝日座と改称[13]。角座は演芸場に転換、演芸ブームで隆盛を誇ったが、漫才ブーム終了後に失速。いずれも昭和末期に閉鎖された。 平成に入りバブル崩壊を受け、松竹は残った中座(松竹新喜劇の本拠地)、浪花座(松竹芸能の本拠地)を相次いで閉鎖[注釈 1]し、映画館の入った商業ビルとして復活していた角座も含めてことごとく敷地を売却。
歴史
町名の変遷
1872年(明治5年) 二ツ井戸町、高津町十番丁、日本橋筋1丁目、東櫓町、西櫓町、九郎右衛門町に改編。
1982年(昭和57年) 日本橋筋1丁目の北端部、東櫓町、西櫓町、九郎右衛門町を道頓堀に改編。
1983年(昭和58年) 二ツ井戸町、高津町十番丁の北端部を道頓堀に改編。
風物詩
船乗り込み
歌舞伎役者など、道頓堀の芝居小屋で興行を行う際、船に乗り込み道頓堀川の船上にて芝居のPRを行う一種のパレード。毎年の夏の公演の他、襲名披露公演でも実施(近年では中村勘三郎襲名披露等)。
とんぼりワッショイ
2006年からとんぼりリバーウォークで実施されている若手アーティストの発表の場の提供、道頓堀の地域活性化の貢献を目的とした春・秋に開かれている路上アートイベント。現在、二代目代表の鄭 重成が道頓堀400周年を機に一時停滞していたとんぼりワッショイを復活させ、実施を継続している。
道頓堀川八丁
道頓堀五座