道端
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中でもローマ帝国が建設したローマ街道は、最も大規模で組織的なものとしてよく知られ、その道路網の総延長は約29万 km、うち主要幹線は8万6000 kmにもおよんだ[9][10]。当時隆盛を極めた古代ローマ人は「世界のすべての道はローマに通ず! 」と豪語したと言われており[6]、道路の性格は軍事色、政治色が強いもので、ローマ市を中心とする広大な領域に、幅が数メートルほどある平坦な道路を放射状に敷き、都市間を最短距離で結ぶため直線的にひかれた[9]。中でも有名なのは、紀元前312年にアッピウス・クラウディウス・カエクスの命令で建設が始まったアッピア街道で、道路幅は15メートル、敷石舗装を施した本格的なものであった[9][10]

このほか地中海クレタ島マルタ島の残る古代道路は、紀元前2000年頃のものといわれ、またアケメネス朝ペルシア帝国王の道は、紀元前約500年頃のダレイオス1世の時代に、メソポタミアの首都スーサ(現イラン国内)から小アジアサルディス(現トルコ国内)へ至る約2500 kmにおよぶ帝国を縦貫する計画道路が造られた[9][11]

東アジアの古代中国においては、紀元前220年までに始皇帝によって馳道(ちどう)とよばれる大規模な道路網の建設が始められた。建設期間10年ほどの間に造られた馳道の総延長は、現代中国の公式記録とも言われる『中国公路史』によれば1万7920里(約7481 km、秦時代の1里は417.5 m)とされ、『漢書(かんじょ)』では「道幅は50歩(約70 m)、路側に3丈(約7 m)ごとに青松を植えた」とされる[12]。始皇帝は、馳道建設の終わり頃に直道(ちょくどう)という、首都咸陽(かんよう)から北へ延びる幅約30 m程度の直線的な軍事道路を造っている[12]。その目的は、北方からの匈奴侵略に備えるためのものであり、現在の中国では直道は「中国最初の高速道路」とよばれている[12]

また、物資を運ぶための交易路も古代より生まれていた。北ヨーロッパで産出された琥珀を地中海沿岸地域へ運ぶために生まれたヨーロッパ最古の道として知られる琥珀の道は、紀元前1900年頃から存在した[13][6]。始皇帝を倒して打ち立てられた中国の帝国の時代[注釈 3]からは、国家統一と経済産業の発展のため関所を廃止して道路建設が全国的に進められたことにより、中国の長安から中央アジアを横断して西南アジア、ヨーロッパを結ぶ絹の道(シルクロード)が登場する[14][15]。シルクロードは、貿易のための地上通路として最もよく知られ、紀元前130年前後の漢の時代から武帝が西域に派遣した張騫(ちょうけん)によって西域の商品や文化が東方へもたらされたことに始まり、7世紀頃のの時代になると中国特産の絹と、ヨーロッパから宝石と織物が運ばれた[14]。また、シルクロードは、東西文化の伝達路として大きな役割を果たし、東洋と西洋の双方異なる優れた互いの文化を吸収しながら発展していった[13]。中国の唐の時代では全国的な道路網が造られており、5里(約3 km)ごとに土堆(どたい、土で築かれた道標)が築かれ、駅路が整備された[16]。中国唐代の道路制度は、日本の道路にも影響を与えており、駅伝制度などは中国から駅制を導入したものである[16]

南米ではインカ(12世紀前半-)の人々(インカ人)たちは伝令たちがアンデス山脈を伝っていけるようなインカの街道を張り巡らせた(→インカ道)。マヤ人たちもヨーロッパによる新世界発見以前にメキシコで石畳の道路網を張り巡らせていた。
中世以後から産業革命期雨天で泥状態になった道路。(ポーランド1914年

ヨーロッパでは、ローマ帝国衰退後から産業革命が起こるまで(紀元3世紀以後 - 18世紀初頭)の間は、道路整備は衰退し、ローマ街道として舗装に使われた石が、後世の農夫たちによって取り外されて、家畜小屋や家の建材として使用されるなど、次第に道は荒廃して行った[17]。17世紀のフランスでは、貴族や国王を乗せた馬車が、道路上の泥濘(ぬかるみ)にはまって横転する災難に遭遇した状況を銅版画で伝えており、同様の道路の惨状はヨーロッパ全土を覆った[17]

18世紀の産業革命期に入って、ようやく道路整備状況が改善される動きが見られるようになり、近代的な断面構造をもつ道路が誕生した。道路建設は路盤工事の後、栗石を敷きならした上に舗石を並べてランマーで突き固めた工事が行われ、アーチ構造の橋梁も建設されるようになるが、これらの工事手法や土木技術は古代ローマ街道とさほど変わらないものであった[18]

フランスではローマ帝国時代に整備された道路網を引き継いで、新たな道路の建設や維持、補修に注力した[19]。1747年、ルイ15世は道路、橋梁に関する王立土木学校をパリに開校して土木技術者の育成に力を入れた[19]。初代校長でもあったジャン・ルドルフ・ペロネ(1708 - 1794年)の監督の下で、近代的な馬車道が整備されるようになる。1764年には、トレサゲ(1716?1796年)が路床と路面が同じ断面歪曲率をもつ砕石舗装道路であるトレサゲ式道路工法を発明した[19]ポンペイの道路

一方、イギリスにおける道路建設とその整備は、16世紀に入ってから馬車交通が著しく発展し、18世紀の産業革命で馬車交通がさらに急増したため、馬車走行に堪えうる強固な道路が要求されるようになった[19]。イギリス地域の道路整備は教区単位で行われため、貧弱で多様な道路状況となった。1706年頃には、これを改良するために初の関所が作られ、通行する車両から料金を徴収した。イギリスでは時にはおよそ1100の料金所があり、3万8千 km強の道路が整備された。馬による移動の時代には、道路は砂利舗装道路上での最大斜度3%強での整備を目指していた。これは馬が坂道で荷を引き上げるのに平行に近いほうが最も都合が良かったためである。

同時期に、トーマス・テルフォード(1757 ? 1834年)とジョン・ラウドン・マカダム(1756 ? 1835年)という道路建築家が、それぞれ独自の工法を発明した。テルフォード式道路は平坦な路床の上に栗石敷設してその上に砕石と砂利を敷き詰めて転圧したもので1805年に発明され、マカダム式道路は路床の上に直接砕石を施設して上層部に細粒砕石を転圧したもので1815年に発明された[19]。特にマカダム式道路は、短い期間で施工可能で、技術的にも容易であったため広く普及し、近代式マカダム道路の原型にもなった[19]シュチェチン, シュチェチン

産業革命期のヨーロッパの道路で、本格的な道路改築を行ったのはナポレオン・ボナパルト(1769 - 1821年)である。ナポレオンは、全ヨーロッパ支配を進める上で、戦争を有利に進めるための軍事的な輸送路確保を目的に道路建設を積極的に行い、フランスからイタリア遠征の経路上にあるアルプス越えのシンプロン峠の道路建設を部下に命じて行わせた[20]。100名以上の人命を失う難工事を乗り越えてゴンドー・トンネルが貫通し、1805年にシンプロン峠越えの道路は完成を見た[20]。その後、モン・スニ峠の道路建設も手掛け、さらに全ヨーロッパにその範囲は及んだ[20]。ナポレオンが道路建設のために支出した予算は、同時期の要塞建設予算の約2倍あったとされている[20]


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