道徳
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デイヴィッド・ヒュームが唱え、近年では神経学者アントニオ・ダマシオや心理学者ジョナサン・ハイトが支持した。

できごとを認識すると、感情と理性が平行して道徳の推論と判断を行う。ヒュームとカントの折衷モデルといえ、神経哲学者ジョシュア・グリーンによって支持された。

できごとを認識をすると、意識的な解釈が行われ、その解釈が道徳についての直観を呼び起こし、感情と理性的推論を生成する。政治学者ジョン・ロールズが唱え、マーク・ハウザーが支持している。

道徳判断は、社会的認識、特に心の理論を利用しているようである。いくつかの感情、例えば同情、罪の意識、怒りは、道徳判断の中心をなすが、他の感情も道徳判断に関連している。しかし、明確に道徳判断に関連する脳の部位はないようである。道徳判断は、記憶が脳の様々な部位を利用するように、感情や認識などの細かな領域を利用しているようである。

人間の道徳判断は、常に一貫しているわけではない。後述のトロッコ問題では、わずかな状況設定の変化によって、人は功利主義的な判断と非功利主義的な判断の間で揺らぐ。友人から金を盗む行為は非道徳的だと感じるが、先日その友人から金を盗まれていたのだと聞けば非難は弱まるか消え去る。見知らぬ人への危害よりも、自分自身や知人への危害のほうが強い憤りを呼び起こす。殺人を極めて非道徳的だと考えながら、同時に死刑制度を強く支持する人も少なくない。復讐は道徳的な大義名分を要求する。逆に言えば、大義名分は報復の正当性を人々に納得させる。戦争や部族抗争の研究によれば、加害者は必ずと言ってよいほど、相手が不当だという憤りを標的に対してもっている[9]

フィリップ・ジンバルドーは、監獄実験で、与えられた仮想的な役割に従って、看守役の一般人が囚人役の一般人を虐待することを示した。スタンレー・ミルグラムは、服従実験で、一般人の道徳心が権威に屈することを示した。ミルグラムによれば、単に権威によって指示されるだけでなく、相手の顔が見えない、過失が相手側にあるというような付加的条件の下では、より道徳心が働きにくいようである。また、死を意識させるような文章を読ませられるだけで、その後の道徳判断に影響が出る。見知らぬ人への敵意をかき立てられ、道徳違反者へはより厳しい罰を求めるようになる[10]。これは恐怖管理理論と呼ばれている。
道徳と罰

「道徳を守ることは正しいことである」と広く考えられており、「なぜ殺人はいけないのか」「なぜ人を不幸に陥れてはいけないのか」というように道徳に対して疑問を示すこと自体が非道徳的であると嫌悪されることもある。我々は、直接自分に関係がない場合であっても他人の行動を気に掛け、道徳と規範に従っているかに注視する。道徳に反する行為は、通常、本人に罪悪感を、それを目撃した第三者には嫌悪感怒り報復など強い感情的反応を引き起こす。また慣習的規範よりも、通文化的な道徳的規範のほうが憤りは激しい。さらに、違反者に対して寛容な態度を取る者へも同様の憤りを引き起こす。

人は非道徳的な行為の犠牲者になったり、それを目撃した場合に、一般的にその行為者を処罰したいという強い願望をもつ。マナーやエチケット、慣習的規範への違反は軽率で粗野だとみなされるだけであるが、道徳的規範への違反は、処罰の欲求を呼び起こす。政治学者フィリップ・テトロックによれば、規範への違反を目撃し、違反者が罰を逃れていると考えるとき、人は違反者への加害を抑制する道徳心の閾値を切り下げるようである。そして厳しい処罰を要求し、違反とは関連のないことにまで判断が影響する。例えば、違反者の曖昧な態度をより敵対的とみなすようになり、不可抗力の要因の役割を割り引いてみるようになる[11]

マーク・ハウザーとファレイ・カシュマンはトロッコ問題などを利用し、どのような原理が道徳判断(特に危害に関する)に影響を与えるのかを調査した[12][13]。彼らによれば、

行動の原理:行動による害(例えば誰かが死ぬようなできごと)は行動しなかったことによる危害よりも、非道徳的だと判断される。

意図の原理:意図をもってとった行動は、意図をもたずにとった行動よりも非道徳的だと判断される。

接触の原理:肉体的な接触を伴う危害は、肉体的な接触のない危害よりも非道徳的だと判断される。

心理学者ジョン・ダーレーによれば、大学生の被験者は刑罰の抑止力を考慮するよりもその犯罪にふさわしいと思われる刑罰を望んだ。刑罰の抑止力を考慮するよう注意された後でも、やはり「因果応報」である処罰を望んだ。「罰が課されない限り、社会と被害者は正義が執行されなかったという感覚をもち続ける」。彼は『なぜ罰するのか?:罰の動機としての抑止力と因果応報』と題された論文で、処罰の欲求は犯罪抑止力に関する要因(例えば犯罪の露見可能性や社会的影響)とは関連が薄く、人々はより単純に罪の重大さをランク付けし、もっとも深刻な犯罪にはその社会でもっとも重い罰(例えば追放終身刑死刑拷問を伴う死刑)を与えなければならないと考えるのだと結論した[14]
道徳と宗教

多くの宗教は、道徳的規範の指示を教典に含んでおり、文化ごとの差に影響を与えている。例えば、キリスト教ユダヤ教などでは、安息日には祈り以外のことをしてはならない。イスラム教では、厳密にはキリスト教でも、偶像崇拝をしてはならない。もっとも、どのような教義でも受け入れられているわけではない。レビ記には奴隷制度を容認する記述があるが、そのような規範は受け入れられていない。

キリスト教福音派の中には、延命治療の中止のようなあらゆる種類の安楽死と、緊急避妊薬を含むあらゆる種類の人工妊娠中絶を不道徳的で殺人として扱うように主張する人もいる。ローマ・カトリック教会コンドームの使用を性道徳を破壊すると非難する。

しばしば宗教は道徳の根源であり、宗教の拒絶は社会の崩壊につながると主張される。アラ・ノレンザヤンによれば、平均すると宗教的な人のほうがボランティアチャリティーに協力する割合が高いようである(これは宗教と道徳性の因果関係については何も述べていない。非宗教的な慈善組織のメンバーもそれと同じくらい利他的に振る舞う[15])。動物の権利国際援助、中絶や安楽死といった近年の道徳的洞察に、宗教は寄与していないと主張する[16]。彼らは、世俗的ヒューマニズムのような宗教的権威に頼らない道徳を模索した。一部の心理学者、人類学者の視点によれば、道徳心は宗教よりも先に存在しており、道徳を扱うことができるような人間の心の認知構造が宗教を編みだし、伝えることを可能にしている[17]。現代の日本の道徳と宗教の関係を、イギリスの文化人類学者は、宗教が道徳の根源になっていない事を認めている[18]。思想・良心・信教の自由を定めた、現在の日本国憲法の制定が、歴史上の境と解釈されるが、それ以前の日本の社会を、小泉八雲は、宗教と道徳と法律と慣習の間に区別がない、圧制の社会と表現している[19][20]
道徳と政治

道徳は、政治的に利用されることもある。為政者に都合の良い教えを道徳とし、社会的な規範とすることによって人民を容易に拘束できるので、封建社会や(禁欲主義精神主義志向の強い)社会主義国家、権威主義全体主義国家などでは領民を精神面で押さえつけることに利用された。

現代では、自分の属する社会への奉仕は愛国者と称賛され、集団に従わない場合は不道徳な非国民と非難されることもある。また、近代以前の社会(特に東洋)においては、法律と道徳・慣習的規範の未分化状態が長く続いていた。また、中近東諸国では、ムタワと呼ばれる、法的拘束力をもって道徳面での国民の教育・取り締まりを担う組織も存在する。

日本では、江戸時代に、荻生徂徠が道徳と法の明確な分離を主張し、以後、国学に継承されていった。

権威に訴える論証伝統に訴える論証も参照のこと。
道徳性の議論
道徳哲学

現存するもっとも初期の道徳の存在を示す証拠は、ハンムラビ法典のような法律と禁止のリストである。またホメロスイソップ物語のように、登場人物自身が道徳的振る舞いをすることによって人々に道徳を教える逸話的な物語も多い。孔子ブッダトマス・アクィナスの教えも、逸話や警句として人々に伝えられた。このような中世以前の道徳教育は、美徳や宗教と関連し、原理や合理性よりも直観や感情に訴え、実行と習慣を強調していた。

西洋では18世紀以降、啓蒙主義者たちが特定の集団の価値観や宗教に依存しない道徳基準を探し始めた。大きな流れの一つが、カント義務論に代表され、広義にはロックホッブス社会契約説も含まれる形式主義的倫理である。もう一つは、ベンサムに代表される功利主義を含む帰結主義的倫理である。


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