遍照発揮性霊集
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『性霊集』の真済編纂分である巻一から巻七までのうち、年代の明らかな作品で最も新しいのは、天長5年2月27日828年3月17日[2]の「伴按察平章事が陸府に赴くに贈る詩」(巻三)である。弘仁14年1月20日823年3月6日)の日付をもつ「酒人内公主の為の遺言」(巻四)を、酒人内親王が没した天長6年8月(829年9月)のものとし、これを下限とする説もある。いずれにせよ、『性霊集』は年代順でなく作品の種類別に編集されているので、失われた巻八?巻十により年代の新しいものがあった可能性は乏しく、天長5、6年(828、829年)が下限と見られる。それが想定できる成立年代の上限となる。

成立年代をめぐる主な説は以下のとおり。

天長7年11月(830年12月)?9年3月(832年4月)の間[3]
『性霊集』は真済と空海の共同編集であるとの見地から、高雄山で真済が空海から密教の奥義を授けられた(その記録が『高雄口訣』といわれる)と伝えられる期間に編纂されたとするもの。

天長9年(832年)から承和2年3月(835年4月)の間で空海在世中[4]
序文に「西山禅念沙門真済撰」とあることから、真済が高雄山=西山に住した天長9年以降[5]とし、「執事年深くして、未だその浅きを見ず」とあることから、現に真済が空海に師事していた間、すなわち空海存命中とするもの。

承和2年3月(835年4月)の空海入滅直後[6]
序文に「謂ゆる第八の折負たる者は吾が師これなり」とあり、空海を密教の第八祖としていること、「大遍照金剛」と空海を尊称していることから、空海没後とするもの。
補注^ 飯島太千雄「空海真跡の控文の出現で判明した『性霊集』の成立事情」(『密教文化』149号、1985年)
^ 『日本紀略』天長5年2月27日(828年3月17日)条による
^ 飯島・前掲論文
^ 渡辺照宏・宮坂宥勝校注『三教指帰・性霊集 日本古典文学大系71』解説(岩波書店、1965年)
^ この点に関して飯島の論考では、天長9年は空海から高雄山を譲られた年であり、それ以前から真済は高雄山に住していたので不当とする
^ 勝又俊教「遍照発揮性霊集と高野雑筆集」(『豊山教学大会紀要』2、1974年)、『定本 弘法大師全集』第8巻(密教文化研究所、1996年)の『性霊集』解説

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