名古屋の遊廓は1610年(慶長15年)に許可されたがまもなく廃止、1731年(享保16年)藩主徳川宗春の時代に再度許可され、翌年から西小路遊廓、富士見原遊廓、葛町遊廓などが造られたが、1736年(元文元年)に西小路遊廓から出火して付近遊興地に延焼したため、これを機に各遊廓は廃止され、1850年代に復活するまで禁止された(中村遊廓#中村遊廓成立以前の名古屋の遊廓参照)[16]。
琉球国時代の那覇には、辻と呼ばれる地域に尾類(ジュリ)と呼ばれる遊女を置いた遊廓があり、明治時代に沖縄県になって以降も続いた[17][18]。尚真王時代の1526年(大永6年)に始まったといわれ、数百とあった妓楼のすべてが女性のみの手によって運営されていたという特色を持つ(明治末頃からは遊廓の集会所の事務方として男性が雇われた)[17]。伊波普猷によると、1672年(寛文12年)に、市中の至るところにいた尾類を風紀上よろしくないという理由から集めて辻と仲島の2遊廓に収容したのが始まりで、その後、渡地にも遊廓ができたという[19]。 滝川政次郎によれば、江戸時代の遊廓の構造は唐の長安にあった妓館の集合地である「平康里」に倣ったものだと言う[20]。大門に通ずる胴町と直角に交わる三筋の横町という構造は、京の柳馬場、六条三筋町、島原に共通して見られ、その後の江戸の吉原、新吉原など名だたる遊廓にも同様の構造がみられるという。 『守貞謾稿』によれば、吉原遊廓では出入り口となる門は西側に一か所あるのみであり、門の脇に作られた番屋によって通行する人々を監視していた。その後、時代を経るごとに門の数が増え、150年後には7か所の門が市街地と連絡していた。全国の多くの遊里は自然発生的な配置となっており、街から隔離された位置に娼家を集め、障壁や掘割で囲んだ廓構造を持つ遊廓は少数であり、特殊な例と言える[20]。 江戸時代の遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。上級の遊女(芸娼)は太夫や花魁などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。 江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。また、遊廓自体も大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。 1872年(明治5年)、日本の近代化が進む中明治政府によって芸娼妓解放令が発令されたが、実態はほとんど変わらなかった。遊女屋は貸座敷と名称を変え、貸座敷のある区域は「遊廓」として存続した。ただし都市化の進展と共に遊廓の存在が問題になり、郊外などへ移転させられる事例もあった。1886年(明治19年)、東大の近くにあった根津遊廓が深川の洲崎に移転したのは、その例である。 1900年(明治33年)、遊廓に反対する廃娼運動 新聞記者出身の細民研究家・草間八十雄によれば、1900年(明治33年)に内務大臣の命により警保局長が遊廓新設に関する標準内規を定め、地方長官に通牒した。これにより、次の条件を満たさなければ貸座敷免許地の新設は検討されないこととなった。 ただしこうした内規があっても、実際には世論を考慮して、遊廓の新設はもとより拡張すら許可されなかったという。しかし、大阪の今里新地や市岡新地
遊廓の構造
遊廓の文化
近代以降の遊廓阿部定が遊女人生の最後を過ごした大正楼。2019年解体京口新地(丹波篠山市)1877年(明治10年)から1958年まで約80年間続いた遊廓の面影を残す猪崎(京都府福知山市)
その土地市街を形成して戸数2000戸以上、人口1万以上を有する。ただし兵営所在地、船着場、その他特別の事情のあるものはこの限りでない。
貸座敷営業者が無いために、密売淫の弊に堪えない。
付近に貸座敷免許地が無いために新設の必要がある。
その他地方民情に背馳しない。
貸座敷免許地に適当な場所がある。
草間によれば、1929年(昭和4年)12月31日における統計は以下の通り。
貸座敷指定地は全国で541箇所。うち30箇所は貸座敷営業者は存在しない、いわば有名無実のもので、したがって実際に貸座敷の存在する遊廓は511箇所。
貸座敷指定地の最も多いのは北海道(45箇所、うち3箇所が有名無実)で、ついで山口(41箇所、うち15箇所が有名無実)、三重(30箇所)、山形(26箇所)、福島(25箇所)、長崎(23箇所)、栃木(21箇所)、新潟および静岡(20箇所)、広島(19箇所)、京都(17箇所)。
少ないのは鹿児島および沖縄(1箇所)、鳥取、徳島および山梨(2箇所)、奈良、和歌山および愛媛(3箇所)。
廃娼が実行されたのは群馬および埼玉。
100戸以上の貸座敷で公娼街をなす遊廓の個数は19箇所で、大阪市南区五花街499戸、京都市東山区祇園町449戸、宮川町418戸、東京市浅草区新吉原295戸、深川区洲崎286戸、大阪市西区松島257戸、京都市下京区七条新地237戸、沖縄県那覇市辻町土之蔵町234戸、京都市東山区祇園町(乙部)227戸、大阪市西区新町212戸、京都市中京区先斗町194戸、大阪市西区堀江156戸、京都市上京区北新地151戸、下京区島原146戸、名古屋市西区旭139戸、岡山市東西中島町120戸、堺市龍神107戸、京都市伏見区中書島104戸、大阪市住吉区飛田 100 戸。以上は確実であるが総数不詳。
娼妓1000人以上を有する遊廓は大阪市西区松島遊廓3657人、東京市浅草区新吉原2557人、深川区洲崎2329人、名古屋市西区旭遊廓1562人、京都市東山区宮川町1340人、神戸市福原遊廓1329人。
1遊廓に娼妓1人を置き、かつてのなごりをとどめるものは、北海道厚岸郡浜中村遊廓、岩手県紫波郡日詰町遊廓、石川県鳳至郡宇出津町遊廓、珠洲郡小木町遊廓、山口県熊毛郡曾根村遊廓の5箇所。
1箇年間の遊客が100万人以上の遊廓は、大阪の松島遊廓209万440人、東京の新吉原167万8305人、大阪の飛田153万7576人、東京の洲崎137万2535人の4箇所。
全国511箇所の遊廓において貸座敷を営業する者は1万1154人、娼妓は5万56人、遊客の総数は1箇年に2278万4790人、その揚代は7223万5400円。
1931年(昭和6年)12月31日で遊廓の個数は減少していないが、貸座敷営業者は9799人となり、娼妓は5万2064人、遊客は2239万3000人と、1929年と大差は無い。
「公娼 私娼の存在は文明国たる日本の恥辱」という議論もなされていた[21]。1923年(大正12年)の関東大震災を機に当局によって「私娼撲滅」が試みられ、当局が浅草 千束町の私娼窟を潰したために、浅草全域が私娼窟のようになったとされる[21]。そのため、「私娼公娼の絶滅論は、風俗の改善が達成されなければ意味がない」と夢野久作が指摘している[21]。