遊牧
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南北朝時代を経て北朝の各王朝は北魏東魏西魏)、北斉北周およびを成立した楊堅を成立した李淵漢化した鮮卑系と言われている[3][4][5]。また、ある学者は趙匡胤が成立した北宋南宋)漢族王朝に疑問を持っている[注 1]。元は遊牧民の帝国であるモンゴル帝国の一部である、軍事力として多くのモンゴル集団を従属させている。

しかし、これら遊牧民の軍事的活躍は、鉄砲大砲などの銃砲火器が発達するに連れて、下火となっていく。技術の進歩によって、射程、連射速度を伸ばした鉄砲の一斉射撃は、騎兵の突撃を騎射の射程外からも返り討ち出来るほどの水準となった。また大砲は軽量化、高性能化していって様々な場所に展開できるようになり、遊牧民の陣地も素早く、遠距離から一方的に攻撃できるようになった。戦術も発達し、三兵戦術の概念が編み出され、騎兵のみに偏った遊牧民の戦術は時代遅れなものとなっていった。また、農耕民は経済、科学力を発達させ、合理性に則って都市を建設していった。こうして出来上がった都市の行政機構は、遊牧民の略奪を容易に許さなくなっていった。
中央ユーラシア遊牧民の民族概念

遊牧民の集団では同盟の締結、指導者家系の婚姻による成員及び家畜群の持参金的分割合流、あるいは政治軍事的理由での他集団の配下への統合など言語や祖先系譜を異にする他集団との融合が頻繁に生じる。また、指導者家系における新世代の独立などによる集団の分裂も日常的である。そのため、歴史的に祖先、言語文化を共有するとされる近現代民族観と、遊牧民における集団の統合意識、同族意識にはきわめて異質なものがある。例えば、現在中央アジアに分布する多くのテュルク系「民族」、例えばウズベク人タタール人といった遊牧民に由来する「民族」の多くが中世のモンゴル帝国においてチンギス・カン一族やモンゴル高原出身の武将の指揮下に再編成された中央アジアのテュルク・モンゴル系の遊牧民集団に起源を持つ。

実際には個々の遊牧集団は上記のように移動生活成員自体が複合的な種族構成を持つのみでなく、冬営地における夏季の留守番要員や農耕要員を包含する。さらに遊牧国家クラスの大集団になると支援基地として都市を建造してそこに行政事務をつかさどる官僚組織や手工業組織を配するなど多種族複合的な性格が強い。この種の遊牧国家の人造都市の特徴は権威の象徴としてのモニュメント的な見せる都市としての意味合いが強い。その典型がウイグルオルド・バリクや元の大都である。
中央ユーラシア遊牧民の文化的特徴

中央ユーラシアの遊牧騎馬民共通の文化的特徴として、数々の点が指摘されている。
実力主義

指導者は、能力のある者が話し合いで選出される

農耕民に比べて女性の地位が高い

能力があれば異民族でも受け入れて厚遇する

男女を問わず騎馬と騎射に優れる、必然的に機動性に富むあり様がそのまま武力に直結している


戦争における人命(人材)の尊重

相手よりも少ない兵力で戦う事が多い為、勝てない相手とは争わない

実際の戦闘はなるべく行わず、指導者間の交渉で解決する

戦術的な退却を多用し、逃げると見せかけて
パルティアンショット伏兵を用いる

情報を重視し、防御の弱い部分を見つけると集中的に攻める


非完結の社会

社会の維持に非遊牧世界の技術・製品・税を必要とするため領域内に農耕都市を抱え込む

などである。これらは人口が少ないがゆえの合理性に基づく。抱え込む農耕都市が増加し支配下の都市間が交易などにより文化的・経済的に一体化することによって広域国家が発生する[6]

これらの文化は、遊牧に起源をもつものであるが、現代の国民国家、産業社会においてその遊牧的慣習は抹殺される傾向にある。その一因として、現代型の民族観、国家観と遊牧民の持つ集団編成原理に相容れない性格がある事が挙げられる。
食生活

モンゴルでは人間は「赤い食べ物」と「白い食べ物」で生きているという考えがあり、赤が肉、白が乳製品を指す。冬場は肉を食べる。干し肉等に加工して保存する。乳からはバターチーズヨーグルト馬乳酒なども作る。朝は乳茶も飲む[7]。肉食中心の遊牧民の生活において、馬乳酒は貴重な野菜の替りにビタミンミネラルを補うものとして夏場を中心に大量に飲まれている。酒とはいうものの、アルコール分は1-3%程度であり、水分、エネルギー、ビタミンC補給源として赤ん坊から年寄りまで飲用する[8]。酒というよりは限りなくヨーグルトに近い乳酸飲料であり、これだけで食事替りにしてしまうほどの夏のモンゴルの主食的存在である。大体1日に0.5 - 1.5リットル位を摂っているという報告が殆どだが、中には1人1日平均4リットルを飲んでいるという驚くべき調査結果もある。馬乳酒を1日3リットル飲むと1,200キロカロリーに相当し、基礎代謝に相当する。発酵の過程で増殖する酵母乳酸菌は、モンゴルでの乏しい食物繊維の替わりに、菌体が腸管老廃物を吸着して排出させている可能性がある[9]。北京農業大学の研究では、馬乳酒には12種類の人体必須微量元素、18種類のアミノ酸、数種類のビタミン群が含まれていた。乳酸菌ビタミンCを生成し、野菜を摂らない遊牧民のビタミンC補給源となっている[7][9]。馬乳酒にはビタミンCが100 mlあたり8-11 mg含まれている[10]。馬乳中の乳糖は発酵によりその多くがアルコール、乳酸または炭酸ガスに変換されるので乳糖不耐症の問題も起こりにくい。[11]。夏季に遊牧民が食事を摂らず馬乳酒のみで過ごしていることが旅行記[12]に記されている[11]。ただ乳糖不耐症のモンゴル人もなかにはいる[13][14]

チベットやモンゴルでは輸入品である団茶(固形茶)が貴重品ゆえに貨幣の役割をも担った[15](「団茶#歴史」も参照)。

淡水魚野菜果物は通常入手できないため、ほとんど食べない[7]

上記のように肉(馬肉や山羊肉。ホルホグなど伝統料理がある)、乳製品、馬乳酒が必要なエネルギーとタンパク質を提供し、不足している糖分は体内でのアミノ酸からの糖新生で補われ、ミネラル、ビタミン類は馬乳酒が提供し、酵母と乳酸菌が食物繊維の代替を果たしている。必須脂肪酸については、家畜が自然の草を餌とするため肉、乳製品、馬乳酒にω-3脂肪酸ω-6脂肪酸がほどよいバランスで含まれている。偏った食事ではあるが、必要な栄養素はすべてそろっていて健康を維持できることになる。また魚を食べることもある[16]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 趙匡胤自身は前漢の名臣・趙広漢の末裔を称していたが、このことは早くから疑問視されていた。例えば江戸時代林羅山は『寛永諸家系図伝』序において、「蜀漢劉備中山靖王の子孫だといったり、趙匡胤が趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。戦国武将の系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合いに出しているほどである。現代では、加藤徹は、趙匡胤の父は突厥沙陀部の国家である後唐の近衛軍の将官であり、世襲軍人だった趙氏一族に突厥沙陀部の血が混ざっていた可能性は高いと述べている。岡田英弘もまた、趙氏が漢民族であったどうかに疑義を呈している。

出典^ a b Nomad Migration in Central Asia
^ 相馬 拓也『草原の掟―西部モンゴル遊牧社会における生存戦略のエスノグラフィ』ナカニシヤ出版、2022年1月。


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