長崎の丸山遊女には、日本人客のみを相手にする日本行、外国人を主に相手にする唐人行・阿蘭陀行の別があり、延宝年間(1673年-1681年)の記録では、遊女776人中、日本行の遊女は10人のみで、格としては吉原の太夫と同様、丸山では最上ランクであった[12]。日本行の遊女は茶道・華道・香道を修め、歌舞音曲や読み書きにも優れ、容姿も良いことが条件だったが、唐人行からの昇進や、遊女屋との縁故関係でなれる場合もあった[12]。オランダ人を相手にする阿蘭陀行遊女が最下層であったが、丸山では、日常は遊廓の外で暮らしながら名義のみを遊女屋に登録し、中国人・オランダ人の接待のみを専門に行なう「仕切り遊女・名付け遊女」と呼ばれる遊女があり、世間に遊女奉公を知られることなく金銭を得ることができることから、自ら登録する者がほとんどで、幕末には登録料を支払ってまでなる者もあった[12]。また、丸山では、1715年に遊女の懐妊に関する法令が出され、外国人との子を懐妊した場合は届け出をしなければならず、父親となる外国人には養育の義務が生じ、父親帰国後の出産の場合は遊女屋に養育の義務があるとされた[12]。母子が唐人屋敷や出島で暮らすことも許されたが、父親が帰国する場合、子供を連れて行くことは禁じられた[12]。
遊廓では少女の人身売買が常態化していたという[14]。ヨーロッパでは個人が自分で売春するのであって、だからこそ本人が社会から蔑視されねばならない。日本では全然本人の罪ではない。大部分はまだ自分の運命について何も知らない年齢で早くも売られていくのが普通なのである。 ? 沼田次郎、荒瀬進共訳『ポンぺ日本滞在見聞記』雄松堂、1968年「児童売春」も参照
明治以降明治10年代の甲府新柳遊廓での娼妓と客
明治時代、制度に則った遊廓は全国に約350、それ以外の遊廓に類するものが約150あった[7]。明治維新以降、吉原遊廓などの日本の売春制度は、ラザフォード・オールコックなど外交官や宣教師たちの批判にさらされた[15]。1872年(明治5年)に発生したマリア・ルス号事件により人身売買の容認を指摘された明治政府は、同年に芸娼妓解放令・牛馬切りほどき令を発布し、年季奉公中の娼妓を解放したが[15]、娼婦が自由意思で営業しているという建前になっただけで、前借金に縛られた境遇という実態は変わらなかった。しかし、突然発令された芸娼妓解放令に対する遊廓側の反発と、路頭に迷う娼妓の発生といった事態の中、翌1873年(明治6年)には、東京府が「貸座敷渡世規則及び娼妓渡世規則」を発令した。その後、遊廓の公娼取締り規則は国から地方自治に移管、各地方に応じた規制が行なわれ、娼妓が自由意志で営業する形式が整えられた。
新たな遊廓制度に対し、新島襄らの安中教会が先頭となって遊廓公許反対運動が起こされた。また、男女同数論を唱え妾制度を批判した福沢諭吉は『家庭叢談』[16]の中で、芸娼妓は「人外人」であると評し、娼妓を排除・拒絶することでその生業を恥と自覚させ、転向を促すことを唱道した。娼婦や売春宿の隔離、囲い込みなどが成されたほか、新聞などで娼婦が「醜業婦」、「闇の女」などの別称で呼ばれる例が見られる様になる[17]。こうした政治・言論界の世論誘導によって、維新以前は花魁と呼ばれた芸娼妓も、明治初期より社会的地位が沈下していった[15]。
1900年(明治33年)の内務省令(娼妓取締規則)により再び統一規制となり[7]、官許の売春婦は、18歳以上の独身者で親の承諾を得た者に限り、所轄警察署の娼妓名簿に登録したうえ、指定の貸座敷以外で商売をしてはならないなど、16条が決められた。1904年(明治37年)末の調査では、全国に官許の娼妓4万2000人余、芸妓2万6000人余を数えた[18]。
大正時代の所定の貸座敷地域は、都内は6か所(吉原、洲崎、新宿、品川、千住、板橋)に限定され、大正10年の都内の娼妓登録者は5600人であった。その8割以上が吉原、洲崎、新宿に集まり、半年で約30万人の集客があったという[19]。
1930年代、世界20数か国において公娼制度が布かれていたが、法律をもって娼妓の自由な外出を禁じている例は日本のみであった。国際連盟のジョンソン委員会などからも非人道的な時代錯誤の制度として非難を浴びたことから、1933年(昭和8年)、娼妓取締規則第七条第二項に定められた外出禁止規定が撤廃された[20]。
多くの若い男性が帝国議会の承認を経た兵役法に基づき政府によって徴兵された日中戦争の頃には、軍人軍属相手に性的労働を行う慰安婦として中国・満州・東南アジアなど日本の支配地域一帯で働いていた。
近代になり公娼制度の下で近代的な性病検査が行われるようになった。国際的に見て、アジアなどの広域で各国娼婦が活動する(または売買される)ようになったのは、これが大きいとも言われる。また公娼制度の下での性病検査の存在は、公娼廃止運動に対する反対根拠ともなっている。
戦後1946年(昭和21年)にGHQの指令により遊廓は廃止され赤線に看板を変えるが、これも1958年(昭和33年)の売春防止法の施行によりいったんは消滅した。 一般的には、宴会席で男性客に踊りを始めとする遊芸を主に接待し、時代、及び立地により、客の求めに応じて性交を伴う性的サービスをする事もあった。江戸時代の遊女の一部は女衒(ぜげん)から売られた女性であったが、高級遊女の大部分は、廓(くるわ)の中や、遊芸者層で生まれた女子の中で、幼少時から利発かつ明眸皓歯(めいぼうこうし)な者が、禿(かむろ)として見習いから育てられた。だいたい10年ほど奉公し、年季を明ければ(実年齢25?26前後)自由になるが、それ以前に身請されて結婚、あるいは囲われる者も多く、また一部はやり手(遊女の指導・手配などをする女性)や縫い子、飯炊きなどとなり、一生を廓の中で過ごす者も存在した。また、雇い主からの折檻、報酬の搾取など劣悪な環境で働かされた者が多かった。
仕事内容
関連用語
揚代 - 遊女の料金 - 記録によれば1950年代の二本木遊廓(熊本市)では 遊女と一晩過ごすのに1200円程度が必要であった。
源氏名 - 遊女の仮の名前
新吉原における各種の女郎「吉原遊廓」および「花魁」も参照
高級遊女
太夫 - 最上位の女郎。宝暦年間の頃には吉原では自然消滅する。
格子女郎
昼三 - 昼見世の花代が三分であった女郎。宝暦以降では最上位の女郎であったが、文政年間末に自然消滅する。
呼出し - 張見世には出ず、揚屋からの呼び出しにのみ応じる女郎。文政年間末に自然消滅する。
附廻し - 昼三に次ぐ地位の女郎。
中級遊女
座敷持 - 居稼ぎの見世において、居住用の自室とは別に接客用の専用座敷が与えられている遊女。
部屋持 - 廓内に自室が与えられている遊女。花魁と呼ばれる下限。
散茶女郎 - 原義は「(客を)振らない」、選り好みせず金さえ出せば誰とでも寝るという意味。