遊び
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なかでも、オランダ歴史家ヨハン・ホイジンガ(ハイツィンハ)とフランスの思想家ロジェ・カイヨワによる研究が古典的な論考として重要視される[8]。また、遊びはさまざまな面において「人間性」ないし「人間性の本質」と関連づけて扱われる傾向がみられる[9]

ホイジンガは、人間を「ホモ・ルーデンス」(遊ぶひと、遊戯人)と呼び、遊び(ルードゥス)こそが他の動物と人間とを分かつものであり、政治、法律宗教、学問、スポーツなど、人間の文化はすべて「遊びの精神」から生まれた、あるいは、あらゆる人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきたものであると主張した[8][9]

他の高度な知能を有する動物に比べて、ヒトは特に遊びが多様化・複雑化しており、生物として成熟した後も遊びを多く行ない、生存にはまったく不要と思われるような行動も多く見受けられる。これを他の動物ないし生物との区別と捉える考えがある。遊びは大きな文化として確立しており、また商品の売り手にとっても市場を左右する要因としても重要である。個人の日常化した遊びを特に趣味と呼ばれる。訓練や学習など、他者から強要されることに苦痛がともなうこともある営みも、遊びのなかで習得していくことは楽しいとされ、それゆえ、これらに「遊び」の要素が取り入れられることがある。

ホイジンガは著書『ホモ・ルーデンス』[* 2] で、子供の遊びだけでなく、企業活動、議論戦争、人間の活動のあらゆる局面に遊びのようなルールと開始と終わりのあるゲーム的性格が見られると指摘し、「人は遊ぶ存在である」と述べた[9]フリードリッヒ・シラーも、「人は遊びの中で完全に人である」という有名な言葉を著書『人間の美的教育について』において残している。
「遊び」の特質

フランスのロジェ・カイヨワはホイジンガ『ホモ・ルーデンス』から大きな影響を受け、『遊びと人間』[* 3] を執筆した。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示している[10]。また、カイヨワによれば、「遊び」とは以下のような諸特徴を有する行為である[8][10]
自由意思にもとづいておこなわれる。

他の行為から空間的にも時間的にも隔離されている。

結果がどうなるか未確定である。

非生産的である。

ルールが存在する。

生活上どうしてもそれがなければならないとは考えられていない。

人はなぜ、どうしてもしなければならないわけでもない「非生産的なこと」をわざわざやるのかということに対する答えとしては、自身の有する技術的・知的・身体的・精神的能力を最大限に無駄遣いしたいためであるという説明がなされる[8]。そしてカイヨワは、これは人間が慢性的にエネルギー過剰の状態にあって、生存するのに必要不可欠な量を超えた過剰なエネルギーを発散する必要があるためであるとし、こうしたエネルギーの無駄遣いから遊びが生まれ、さらにそこから人間の文化が生まれてきたのだと唱えた[8][10]
「遊び」の類型

カイヨワは『遊びと人間』のなかで、遊びを次の4つの要素に分類している[10][11]

アゴン(競争) :運動や格闘技、子供のかけっこ、ほか。

アレア(偶然) :くじ宝くじなど)、じゃんけんサイコロ遊び、賭博ルーレット競馬など)、ほか。

ミミクリ(模倣) :演劇絵画カラオケ物真似積み木ごっこ遊びままごとなど)、ほか。

イリンクス(めまい) :メリーゴーランドジェットコースターブランコスキー、ほか。

ほとんどのスポーツチェス将棋囲碁リバーシなどのボードゲームマインドスポーツ)、クイズなどの知的ゲームはアゴンに属し、ホイジンガは、学問や政治はアゴンの進化したものととらえる[11]。この4類型を複合させることも可能であり、たとえば、麻雀トランプはアゴンとアレアがミックスされたものであるといえる[11]

また、それぞれの類型においてルドゥスとパイディアという2つのモード(スタイル、様式)があり、前者は確然としたルール的制約の存在するものであり、後者はルールらしいルールがなく、あってもごく緩やかなものである[11]。同じアゴンであってもボクシング柔道レスリングはルドゥスに属するのに対し、ただの取っ組み合いはパイディアである[11]


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