家禄二百石取りの上士小幡家
の小幡篤次郎は、16歳で進脩館に入った。その後、福澤諭吉に見いだされ慶應義塾へ入塾。下士の出である福澤諭吉は二度目の洋行後、自分の片腕となる人物が欲しいと考え、中津へ赴いた。そこで小幡兄弟を見いだす。小幡篤次郎は福澤を補佐し、慶應義塾の運営および教育にあたった。藩主・奥平昌邁も福澤諭吉に共鳴し、「中津市学校」を開設、小幡を校長に据え、慶應義塾へ入塾した。その後、閉鎖までにほぼ全ての中津藩士が慶應義塾に移籍している。進脩館と慶應義塾は資本関係などで直接のつながりがあるわけではないが、慶應義塾初期の体制を構築する一部であることは間違いないため、慶應義塾の源流の一つと見做すケースもある[2]。慶應義塾大学
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