週刊現代
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1974年(昭和49年)、金大中拉致事件をめぐって韓国政府および当時の大統領朴正煕を批判するキャンペーンを繰り広げる。これに韓国政府が激怒し在東京韓国大使館経由で抗議を受け、川鍋は社長代行服部敏幸との喧嘩の末に編集長を解任される。翌1975年(昭和50年)、川鍋は省一の娘婿にあたる専務野間惟道と共に日刊ゲンダイを立ち上げた。詳細は「日刊ゲンダイ#韓国関連」および「金大中事件#事件のその後」を参照「野間惟道#略歴」も参照
元木昌彦編集長時代

ヘアヌードを積極的に掲載した。オウム真理教事件や阪神・淡路大震災などの大事件が相次いだこともあり、実売で50万部に落ち込み、週刊誌6位に低迷していた発行部数を1995年には平均発行部数が73万部(実売部数も70万部台に乗せた [11])。さらに1996年新年号では150万部を発行して、瞬間的には「週刊ポスト」を追い越すまで持ち直す。

政治的には、「週刊ポスト」の親小沢一郎路線に対して、小沢批判の記事を前面に押し出した。この結果、小沢の記者会見からは「週刊現代」が締め出され、講談社で出していた小沢の『日本改造計画』の英訳版の話もなくなる。「週刊現代」が代表したヘアヌード路線は部数に貢献したものの、新聞や宗教団体などから批判を受け、航空会社機内誌から外される事態にも至った。

1996年新年号にオウム真理教の教祖だった松本智津夫自白調書を掲載。これまで自白もなく調書も存在しないとしてきた検察警察の発表を覆す内容となるものであった。これに対して松本智津夫は秘密漏洩罪で告訴し、東京地方検察庁は松本の前担当弁護士横山昭二の事務所を捜索した。さらに講談社へ家宅捜索が行なわれる直前で松本が告訴を取り下げた。親告罪であるため、この件に関する捜査は終了した。新聞やテレビが「週刊現代」に批判的だった一方で、本田靖春などのジャーナリストやミニコミ誌はこれを検察の情報操作と言論の自由に対する威嚇とみなした。詳細は「横山昭二#不祥事」および「秘密を侵す罪#秘密漏示罪」を参照「麻原彰晃#罪状認否」および「オウム真理教事件#オウム裁判」も参照

1997年9月に掲載した早稲田大学が凋落したとの記事に対して、早稲田大学側は記者会見を開いて告訴すると発表。当時の総長である奥島孝康は「文藝春秋」の1998年1月号に反論記事を掲載した。
鈴木哲編集長時代

1999年9月25日号に、現東京都議会議員龍円愛梨(当時は全国朝日放送アナウンサー)が学生時代に風俗店で働いていたとする記事を掲載。龍円個人とテレ朝に名誉毀損で提訴され、2001年9月、東京地方裁判所は770万円の支払いと謝罪広告の掲載を命じた。この記事の情報源は、ライブドア送金指示メール事件堀江貴文が送ったとされた電子メールを捏造した西澤孝だった。
鈴木章一編集長時代

ジャーナリストの岩瀬達哉による年金未納問題追及キャンペーンを行う。その後、国会などで年金問題が扱われる契機となる。さらに政府の年金CMに出演していた江角マキコの年金未納問題をスクープ。この報道は、政治家の年金未納問題の発覚に繋がった。また、溝口敦を起用し、大阪の食肉加工業者「ハンナン」の浅田満牛肉偽装事件を追及するレポート『食肉の王』を連載。同和問題に鋭く切り込み、後の詐欺容疑での立件のキッカケを作った。詳細は「年金未納問題#未納問題の経緯」および「政治家の年金未納問題#概説」を参照

外部のジャーナリストのスクープ記事を掲載する一方、契約記者のギャラや取材費などを切り詰めた結果、雑誌の収益は上がったものの現場の士気が低下。仕事が出来る記者が他誌に転職する事態となり、部数減を招いた。また、自身も2004年に競合誌『噂の真相』の休刊号で部下の女性編集者との女性問題を報道されてしまい、新雑誌企画室へ異動させられ事実上更迭された[12]。「噂の眞相#休刊」も参照
出樋一親編集長時代

鈴木章一が更迭された後、僚誌の『FRIDAY』編集長だった出樋一親が本紙編集長に異動する。

第87-89代内閣総理大臣・第20代自民党総裁小泉純一郎が掲げた『聖域なき構造改革』に批判的。小泉内閣の官房長官で後の第90・96-98代内閣総理大臣安倍晋三北朝鮮関係者との関係を暴くなど、硬派なスクープ記事を掲載した。

2005年5月21日号で「広島県警が神戸テレクラ放火殺人犯【首謀者】を隠す闇」として現職の警部補と放火殺人事件の犯人との癒着疑惑を報じた。これに対し、警部補が慰謝料1100万円と謝罪広告を求めて提訴した。2009年3月30日、広島県警は講談社が「犯罪組織のリーダーから不正な利益供与を受けたなどの記述は、事実と異なります。ご迷惑をおかけしました」とする謝罪文を提出することで和解したと発表した[13]

出樋は、その後『FRIDAY』に戻り第12代編集長に就任する。
加藤晴之編集長時代

2006年(平成18年)、加藤晴之が編集長に就任。加藤は保守強硬路線の人間で、本誌の論調はそれまでの左寄りから右寄りへと大きく変化し、『日刊ゲンダイ』とは逆の立場になった。


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