連邦同盟
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その後1825年に起きたシスプラチナ州(ウルグアイ)を巡ってブラジル帝国との間に起きた500日戦争 の最中にベルナルディーノ・リバダビア(英語版)大統領の発した首都令により、ブエノスアイレス市が中央政府に取り上げられることを恐れたブエノスアレス州の保守派は新しい連邦派を形成することになる。

こうしてブエノスアイレス出身のフアン・マヌエル・デ・ロサスが中央政府からブエノスアイレスの港湾利権を守るために連邦派の統領になると、アルティガスの時代にはブエノスアイレスの独占に抵抗するために存在した連邦派は、今度はブエノスアイレスの利権を守るための連邦派になったのだ。しかし、それでも中央政府を作らずに各州の自治権を尊重していこうとする動きは内陸部のカウディージョの支持を集め、ここにブエノスアイレスと内陸部の意見が一致した。それまで敵対的だったリトラル三州は、今度はロサスの率いるブエノスアイレスと同盟して中央集権同盟との戦いに当たった。

中央集権同盟を倒すと、アルゼンチンは三頭政治となり、しばらくして名実共にロサスとブエノスアイレスがアルゼンチンの覇者となった。ロサスはカウディージョらしい力の政治を敷き、パンパの伝統に反するブエノスアイレス市の欧化主義者や自由主義者を粛清、追放した。ロサスはパラグアイをアルゼンチンの領土だと考えて軍を送ったほか、1836年アンドレス・デ・サンタ・クルスの建国したペルー・ボリビア連合とも敵対し、ペルー・ボリビア連合はロサス軍とチリ軍の攻撃により崩壊した。ロサスは500日戦争の結果としてイギリスの仲介により、1828年に独立したウルグアイをも自国の領土だと考え、ウルグアイの内乱においてブランコ党に肩入れした。このことは、同じくウルグアイを自国の領土と考えていたブラジルとの間に軋轢を生み、ウルグアイめぐっての大戦争が勃発した。

ロサスはアルゼンチン連邦を作ったものの最後まで中央政府を作らずにブエノスアイレス州知事としてアルゼンチンに君臨したが、この時アルゼンチンに野心を持っていたイギリスフランスとの戦争の中で次第にその政策は中央集権的になって行き、英仏海軍のラ・プラタ川封鎖によるリトラル三州の貿易港への大打撃はそのままロサスへの不満となって行った。

その後英仏軍はロサスの頑強な抵抗により遂に撤退したが、そうした事情もあって1852年、連邦派としてそれまでロサスの腹心だったエントレ・リオス州のフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)がブラジルに唆されてブラジルとウルグアイのコロラド党との間に同盟を結んでロサスに反旗を翻し、ロサスをカセーロスの戦い(英語版)で打ち破った。
ウルキーサの連邦派

ウルキーサはロサスと同じ連邦派だったが、ロサスとは違って中央政府を作って連邦主義を法制化することによりブエノスアイレス以外の諸州の利益を確保しようとした。この時に自由主義者で欧化主義者のフアン・バウティスタ・アルベルディが起草した1853年憲法は、形式的には連邦主義でありながらも、実質的には中央政府の州政府への干渉権を認めた中央集権的憲法だった。

しかし、 それでもブエノスアイレス州は連邦主義者のウルキーサが国政を牛耳るのに我慢ならず、1852年には独自の憲法を作ってアルゼンチン連合を離脱してしまう。ロサスに弾圧されたブエノスアイレスの自由主義者も、市が連邦に取り上げられ、港の利益が連邦のものになるのは認められなかったのだ。

ウルキーサはブエノスアイレス以外の州を合わせてアルゼンチン連合を建国し、首都をエントレ・リオス州パラナに定めるが、この国家は全く機能しなかった。海外貿易の出来ない時点で国家としては失敗していたのだ。ここでもしモンテビデオがアルゼンチン領ならば、ブエノスアイレスではなくモンテビデオを通して海外との貿易が可能だったかもしれないが、既にモンテビデオはウルグアイとして独立しており、しかもウルグアイは親ブラジル派のコロラド党が政権に就くことがほとんどだったのだ。

このような混乱の中で1861年にブエノスアイレス州知事バルトロメ・ミトレがパボンの戦いでウルキーサのアルゼンチン連合軍を破り、1862年には自ら大統領に就任した。こうしてブエノスアイレス主導でアルゼンチンの中央集権的統一が達成された。

三国同盟戦争が勃発するとウルキーサはパラグアイ大統領のソラノ・ロペスと密約を結び、もしミトレ政権がパラグアイ軍のアルゼンチン領土通行を認めないなら、ミトレに対して決起する予定だったが、この密約は履行されず、ウルキーサに密約の履行を迫ってパラグアイはアルゼンチンに宣戦布告した。しかし、ウルキーサは動かず、各地の連邦派カウディージョはウルキーサを頼らずに決起した。特にカタマルカ州のカウディージョ、フェリペ・バレーラ(スペイン語版、英語版)はラテン・アメリカ諸国の団結と、三国同盟戦争への反対を訴えて反乱を起こしたが、1869年に敗北し、バレーラはチリに亡命した。

三国同盟戦争が終結した1870年、ウルキーサは連邦派のロペス・ホルダン(英語版)に暗殺された。その後ガウチョやカウディージョといった土着勢力が近代化の圧力の前に敗北すると連邦派は壊滅し、畜産品モノカルチャーの下でイギリスの非公式植民地のようになっていたブエノスアイレスは全アルゼンチンを植民地のように支配した。
連邦同盟とその諸州の旗
第一期

?1815年の連邦同盟最初の旗で、コリエンテス州の旗でもあった。

?東方州とアルティガスの旗としても知られている。連邦同盟の二番目の旗としても知られており、現在のエントレ・リオス州の州旗である。

?コルドバ州の旗。1815年-1825年

連邦同盟とその諸州の旗
東方州の侵略

?コリエンテス州の旗。1822年

?ラミレス将軍のエントレ・リオス共和国の国旗

?33人の東方人の旗33人の東方人とはブラジル帝国の侵略に対する反抗の指導的な役割を果たした東方州の一団である。

?ウルグアイ東方共和国の旗。1828年-1830年

連邦同盟とその諸州の旗
フアン・マヌエル・デ・ロサス

?1850年の時点で完成したブエノスアイレス州の旗であり、アルゼンチン連邦にまで拡大して使用された

?連邦同盟の最後の時点におけるエントレ・リオス州の旗。1833年-1852年

?1823年の旗の後のコリエンテス州の旗

?サンタフェ州の二つ目の旗(1825年)

関連項目

リトラル三州

三国同盟戦争


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