3月にブルガリアとユーゴスラビアが日独伊三国同盟に加盟したが、その直後の27日にユーゴスラビアに政変が起き親独派の政権が倒れた。ドイツはユーゴスラビア侵攻を決め、4月6日に侵攻を開始した。4月17日にユーゴスラビア全土が占領され、4月23日にはギリシャも降伏した。両国政府は亡命政府となって連合国に参加し、ユーゴスラビア王国亡命政府は海外からチェトニックを支援して抵抗運動を開始した。6月1日にはクレタ島を失陥し、イギリスは地中海の戦いで不利な状態となった。4月3日にはイラク王国で親独派のラシード・アリー・アル=ガイラーニーが政権を握り、親英派の摂政アブドゥル=イラーフを追放したため、イギリスは5月にイラク全土を占領して摂政イラーフを復帰させ、1947年10月26日まで駐留を続けた。
6月にはクロアチア独立国が日独伊三国同盟に加盟した。6月22日にはドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が開始された。ソ連と連合国は提携し、8月25日には補給線を確保するためイランに侵攻、占領下に置いた(イラン進駐 (1941年))。ポーランド亡命政府もソ連と協定を結び(en
)、ソ連軍に捕虜となっていたポーランド軍将兵を再編成することとなった。しかし到着した将兵は捕虜総数にはるかに及ばず、ポーランド側はソ連に不信感を持った。9月13日、イタリア軍はイギリスの保護領エジプト王国を攻撃し、北アフリカ戦線が形成された。11月28日にはイタリアの統治下にあったイタリア領東アフリカが連合軍によって占領され、エチオピアでは皇帝ハイレ・セラシエ1世の統治が再開された。同月にはデンマークも日独伊三国同盟に加盟した。
12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始し、イギリス(オーストラリア、カナダ、南アフリカ、ニュージーランドを含む)とアメリカに宣戦布告、開戦した[10]。第二次上海事変以来日本と交戦状態にあった(支那事変/日中戦争)中華民国も連合国として続けて日本と戦うとともに、ドイツとイタリアとの間にも宣戦布告をし連合国側に加わった。その後ドイツとイタリアもアメリカに宣戦し、戦域はほぼ全世界に及ぶ事となった。12月26日からはワシントンD.Cでアルカディア会談などの会議が開催され、連合国側で参戦していた26カ国による宣言が準備された。
1942年「連合国は自由のため戦う」と記されたポスター。
1942年1月1日には連合国共同宣言が発表され、単独不講和などが取り決められた。2月にはアメリカとイギリスで作戦を協議する連合参謀本部が設立され、指揮統合のための準備が行われた。東南アジアでは日本軍の攻勢が続き、2月15日には英領マレー半島およびシンガポールが陥落、3月9日にはオランダ領東インド、6月9日にはアメリカの植民地のフィリピン全土が占領された(フィリピンの戦い (1941-1942年))。海戦でもジャワ沖海戦やセイロン沖海戦など連敗が続いたが、6月25日のミッドウェー海戦で日本海軍の主力空母を4隻撃沈するなど初めて勝利したが、以降もアメリカ本土空襲やオーストラリア空襲が行われるなど日本軍の攻勢が続いた。
独ソ戦ではドイツ軍の進撃も鈍り、スターリングラードを攻略しようとしていた第6軍は完全に包囲された(スターリングラード攻防戦)。また北アフリカではエルヴィン・ロンメル率いるドイツ軍に押され続けていた連合軍は10月24日のエル・アラメインの戦いで勝利し、11月8日にはトーチ作戦でフランス領アルジェリアに上陸、ヴィシーフランス軍の指揮官フランソワ・ダルラン将軍を寝返らせるなど、ようやく攻勢に転じ始めていた。 1月14日からはルーズベルト大統領とチャーチル首相の間でカサブランカ会談が開かれ、南イタリアへの上陸作戦を行うとともに、枢軸国に対して無条件降伏を求める方針が決定されたが、1月末に日本軍とアメリカ軍の間で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ軍は完敗するなど、枢軸国に無条件降伏を突きつけるには次期尚早であった。 2月2日にスターリングラードの第6軍は降伏し、ソ連軍の反攻が始まった。その最中の4月13日、ドイツ軍がスモレンスク近郊で大量のポーランド軍将兵の死体を発見し、ソ連軍によって虐殺されたと発表した。ポーランド亡命政府は真相解明を要求したが、ソ連はドイツのプロパガンダであると主張し、亡命政府と断交した(カティンの森事件)。 3月27日に行われたアッツ島沖海戦では日本とアメリカ軍の両方が大きな損害を受けたが、前年12月頃から続いていた第一次アキャブ作戦では、4月に日本軍がイギリス軍を破るなど、日本軍の勢いは続くかに見えた。 その後も日本軍は7月に行われたコロンバンガラ島沖海戦などで勝利を収めるものの、それに先立ち6月に起きたニュージョージア島の戦いで大きな被害を受けるなど、西はアフリカ大陸沿岸から、東はアメリカ西海岸沿岸までと、当初予定していたより戦線を広げ過ぎたにもかかわらず、1国でイギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランドなど複数の国と戦う日本の攻勢は弱まり、この頃は各地で両陣営の一進一退となる。 7月10日に連合軍はハスキー作戦を発動し、シチリア島に上陸した。イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らは連合軍との講和に動き、7月24日にはベニート・ムッソリーニ首相を解任、逮捕した。イタリア王国政府は9月8日に休戦を発表したが、ドイツはムッソリーニを救出した上でイタリア社会共和国(サロ政権)を建設し、イタリア北部で抵抗を続けた。カイロ会談で左から?介石、ルーズベルト、チャーチル。 11月22日にはルーズベルト・チャーチル・?介石の三者会談によるカイロ宣言が発表され、日本の戦後処理などの方針が定められた。続いて11月28日からはルーズベルト・チャーチル・スターリンなどによるテヘラン会談が行われ、翌年春にフランスへの上陸作戦を行い「第二戦線」を築くこと、ポーランド国境の画定、ユーゴスラビアのパルチザン支援などが取り決められた。 昨年11月から日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍などの間で行われていたブーゲンビル島の戦いは、この年に入ると完全に日本軍の劣勢となっていく。また、2月3日に開始された第二次アキャブ作戦においても日本はイギリス軍に敗北し、インド攻略をあきらめざるを得なくなった。 6月6日には連合国遠征軍最高司令部総司令官ドワイト・D・アイゼンハワー陸軍大将の指揮によるノルマンディー上陸作戦(ネプチューン作戦)が実行され、アメリカ・イギリス・自由フランス軍などの連合国部隊がフランス北部に上陸し、第二戦線である西部戦線を形成した。8月25日にはパリを解放し、自由フランスによるフランス共和国臨時政府が成立した。9月にはマーケット・ガーデン作戦が失敗し、進撃は一時停滞したものの、10月22日にはアーヘンをドイツ本土で初めて占領するなど着実に戦果を拡大していた。しかし12月16日からドイツ軍の大規模な反攻作戦が開始され、バストーニュが包囲されるなど押し込まれた。連合軍は12月23日から反撃を開始し、迅速にドイツ軍を敗走させた(バルジの戦い)。 イタリアでは6月5日にローマを攻略し、8月11日にはフィレンツェまで至った。
1943年
1944年