連合国_(第二次世界大戦)
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これはソ連の外交体制変更を告げるものであり[6]スターリンはドイツとの秘密交渉を開始した。英仏とソ連の交渉は対ソ不信の強いポーランドの拒否もあって成立せず、一方でドイツとソ連は8月24日に独ソ不可侵条約を締結した。この条約にはポーランドを独ソで分割する秘密協定も付属していた。
1939年

9月1日、ドイツがポーランド侵攻を開始した。イギリスはフランスと共同して参戦する予定であったが、ドイツと直接国境を接するフランスの対応は慎重であった。交渉がまとまった9月3日11時30分にイギリスはドイツに宣戦し、フランスも同日午後5時に宣戦を行い、両国の自治領・植民地も追随した。しかし英仏の動きは活発ではなく、イギリスがイギリス海外派遣軍(BEF)をフランス国内に派遣したが実際の交戦はせず、独仏国境地帯でのにらみ合いが続いた。この様子はまやかし戦争と呼ばれている。ポーランドは独ソ両国に占領され、9月17日に政府が国外に亡命し、一部の兵士はフランス軍やイギリス軍に入って戦争を継続した(ポーランド亡命政府)。またイギリスはチェコスロバキア亡命政府を承認し、亡命チェコ・スロバキア人も戦闘に参加するようになる。

ソ連が11月にフィンランドに宣戦すると(冬戦争)、連合諸国の間で反ソ感情が高まった。フランス首相エドゥアール・ダラディエはソ連との断交を提案したが、イギリスは拒否した。
1940年

2月17日にはドイツ海軍のタンカーアルトマルクが、ノルウェー領海でイギリス海軍に拿捕され、捕虜を奪還されるという事件が起きた(アルトマルク号事件)。この事件を容認したノルウェーは親連合国的であるとドイツは判断し、侵攻の準備を本格化した。

一方でフランス軍はなおもフィンランド救援をあきらめず、陸軍総司令官モーリス・ガムランなどはバクー油田を含むカフカース地方への攻撃を考慮していたが、イギリスを説得することはできなかった。フィンランド国内への援軍派兵も軍を通過させるスウェーデンの拒否に遭い、実現しなかった。3月13日、フィンランドがソ連と休戦協定を結ぶことを余儀なくされると、フランス国内ではフィンランドを救援できなかったダラディエ首相への批判と、即時対ソ宣戦を求める動きが起きた。3月20日、ダラディエ内閣は総辞職し、ポール・レノー内閣が発足した。レノーは政治基盤を左派に頼ったため、ミュンヘン会談でダラディエと決裂したように対独戦争に強硬だった[7]

4月9日、ドイツはヴェーザー演習作戦を発動し、ノルウェーとデンマークに侵攻を開始した。デンマークは即日降伏し、ノルウェーもドイツの激しい攻撃を受けた(ノルウェーの戦い)。国王ホーコン7世とその政府は英仏に協力を要請したが、オスロをはじめとする全土の大半はドイツの手に落ち、ヴィドクン・クヴィスリングの親独政権が樹立された。北大西洋がドイツの管制下に置かれることを恐れたイギリス軍は、5月7日にデンマークの同君連合国家であったアイスランドに侵攻し、占領下に置いた。

5月10日、ドイツは黄色作戦を発動し、ベルギー・オランダルクセンブルクへの侵攻を開始した。ルクセンブルク政府は即日、オランダ政府は5月12日に亡命し、軍は降伏した(オランダにおける戦い (1940年))。フランスやベルギーでもドイツ軍は猛威を振るい、5月27日にはベルギー国王レオポルド3世と軍がドイツに降伏し、政府はロンドンに亡命した。イギリス海外派遣軍とフランス軍の一部はダンケルクで包囲され、殲滅の危機にあったが、ダイナモ作戦によって救出され、イギリス本土に渡ることが出来た(ダンケルクの戦い)。6月8日にはノルウェー最後の拠点ナルヴィクが陥落し、ノルウェー政府も亡命に追い込まれた。「ナチス・ドイツのフランス侵攻」も参照

フランス軍は各地で撃破され、6月16日にはパリが占領された。フランス政府内では降伏の機運が高まり、抗戦を主張するレノー首相は辞職に追い込まれた。後継首相のフィリップ・ペタン元帥は降伏を指示し、6月18日にフランスは降伏した。休戦協定によってフランス北部は占領下に置かれ、フランス政府は南部を統治するヴィシー政権となって戦争から離脱した。しかしシャルル・ド・ゴールを始めとする一部のフランス将兵は国外に脱出し、交戦団体自由フランスとして戦争を継続した。また7月2日にはフランス海軍の艦艇を接収しようとしたイギリス軍とヴィシー政府海軍との間で交戦が発生し、フランス人の間で反英感情が高まった(メルセルケビール海戦)。

ヒトラーはイギリス本土攻略作戦(アシカ作戦)において航空機爆撃を重視し、さかんに空襲作戦を行った。この間の空における戦いはバトル・オブ・ブリテンと呼ばれ、ドイツ側に多大な損害を与えた。イギリスを屈服させられないヒトラーの視線は東に移り、ソ連攻略を計画し始めた。この間、ソ連は6月30日からラトビアリトアニアエストニアを占領したが、これは独ソ不可侵条約の秘密条項によるドイツの承認を受けたものだった(バルト諸国占領)。

9月27日に日本とドイツ、イタリアの3国は日独伊三国同盟を締結した。これは第二次世界大戦における枢軸国の原型となり、その後11月にハンガリールーマニアスロバキア独立国が加盟した。

10月28日、イタリアがギリシャに宣戦し、侵攻を開始した。しかしイギリスの援助を受けたギリシャ軍は優勢であり、イタリア領のアルバニアに逆侵攻するほどであった(ギリシャの戦い)。
アメリカの連合支援

アメリカの世論では孤立主義がなおも根強く、ヨーロッパ戦線への関与を求める声は少数であった。しかし大統領フランクリン・ルーズベルトは1937年10月5日の隔離演説で日独伊の三国を「侵略国」として暗に非難し、「平和愛好国」を守らねばならないと演説したように[8]、日独伊の行動を容認する考えは全く持っていなかった。このためアメリカ政府は連合国への支援を開始した。

ポーランド侵攻時には中立を守ると宣言した一方、1939年5月と11月には中立法を改正し、交戦地域を通過して武器を輸出できるようになった。1940年9月2日にはイギリスに旧式駆逐艦50隻を送るかわりに、一部英領基地の使用権を得る協定を締結した(en:Destroyers for Bases Agreement)。12月18日にはルーズベルト大統領が炉辺談話でアメリカは「民主主義の兵器廠(英語版)」であると宣言した。1941年3月11日にはこれに基づいてレンドリース法が成立し、アメリカは連合国への武器貸与を開始した。同年5月27日には無条件非常事態を宣言し、6月にはドイツ・イタリアとの外交関係を断絶した。独ソ戦の発生以降はレンドリースの対象がソ連にも拡大され、莫大な軍需物資が貸与された。また、4月にはデンマーク大使ヘンリク・カウフマン(英語版)と協定を結び、グリーンランドにアメリカ軍が進駐した。7月にはアメリカ=アイスランド防衛協定を結び、イギリスが占領したアイスランドにも進駐した。

8月にはイギリス首相ウィンストン・チャーチルとルーズベルトが会談し、大西洋憲章が締結された。これはドイツの侵略に反対するとともに戦後の世界構想を提示したもので、将来の国際連合設立の基礎となるものであった。ルーズベルトはアメリカ・イギリス・ソ連・中華民国の4カ国、すなわち「四人の警察官」で戦後世界の平和を保つべきと主張した。チャーチルは中国の参加には消極的であったが、結局は受け入れた[9]
1941年

3月にブルガリアとユーゴスラビアが日独伊三国同盟に加盟したが、その直後の27日にユーゴスラビアに政変が起き親独派の政権が倒れた。ドイツはユーゴスラビア侵攻を決め、4月6日に侵攻を開始した。4月17日にユーゴスラビア全土が占領され、4月23日にはギリシャも降伏した。両国政府は亡命政府となって連合国に参加し、ユーゴスラビア王国亡命政府は海外からチェトニックを支援して抵抗運動を開始した。6月1日にはクレタ島を失陥し、イギリスは地中海の戦いで不利な状態となった。4月3日にはイラク王国で親独派のラシード・アリー・アル=ガイラーニーが政権を握り、親英派の摂政アブドゥル=イラーフを追放したため、イギリスは5月にイラク全土を占領して摂政イラーフを復帰させ、1947年10月26日まで駐留を続けた。


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