連合国_(第二次世界大戦)
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この考えにはナチス政府がすでにベルリンから疎開しているという考えがあり、アルプス地域に要塞を築こうとしているという懸念があった[11]。4月1日にはドイツの工業地帯ルール地方の包囲に成功し、4月21日に占領した。

赤軍は2月にハンガリー全土を占領し、ドイツへの石油供給を絶った。ドイツ軍の春の目覚め作戦による反攻も跳ね返し、東プロイセンオーストリアに進撃した。4月16日からはベルリン作戦を発動し、首都ベルリン攻略を開始した(ベルリンの戦い)。4月25日にはアメリカ軍と赤軍の兵士がエルベ川付近で遭遇し、東西戦線がついに邂逅した(エルベの誓い)。

ヒトラーが4月29日自殺したことで、ベルリンは翌4月30日に陥落した。後継者となったカール・デーニッツ元帥は政府(フレンスブルク政府)を組織したが、彼に出来ることはもはや兵士をできるだけ米英軍に降伏させることだけであった。5月2日にはイタリアのドイツ軍が降伏し、ドイツ国防軍自体も5月7日に米英軍、8日にソ連軍に降伏した(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)、ドイツ降伏の流れ(英語版))。プラハの戦いは5月11日まで続いたが、欧州戦線における戦闘は5月上旬でおおむね終了した。これにより連合国軍は対日戦に集中することになった。

対日戦では3月にフィリピン全土が連合軍の支配下となり、2月から3月には硫黄島の戦いが行われることで、初めて日本の領土で地上戦が行われた。硫黄島に空港を敷設することで連合軍は日本全土の制空権を掌握し、大規模な空襲を行えるようになった。3月26日からはアメリカ軍とイギリス軍が主体になり、日本軍に対して沖縄戦を開始し、6月20日には全島を占領した。これ以降、日本本土はアメリカ軍やイギリス軍による空襲と艦砲射撃による攻撃を受けることになる。

7月17日にはポツダム会談が開かれた。これに先立つ4月12日にルーズベルトは死去しており、チャーチルは会議中に選挙で敗北したため首相を辞任しクレメント・アトリーにその座を譲った。会議ではドイツの占領統治などを定めたポツダム協定が取り決められ、公式日程では協議されていなかったが、日本への降伏を迫るポツダム宣言も期間中(26日)に発表された。

8月6日には、アメリカ軍が広島、8月9日に長崎への原爆投下を行い、8月8日にはソ連が対日参戦した。ソ連を通じた停戦工作を画策していた日本政府は降伏を決断し、8月14日にポツダム宣言受諾を通知した上で、15日に発表した。9月2日、戦艦ミズーリ上で降伏文書署名が行われ、太平洋戦争および第二次世界大戦は終了した(日本の降伏)。
戦後「第二次世界大戦の影響」も参照

終戦後、連合軍はドイツ・オーストリア・朝鮮半島は分割して軍政下に置き(連合軍軍政期 (ドイツ)連合軍軍政期 (オーストリア)連合軍軍政期 (朝鮮史))、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府を通じた間接統治による占領下に置いた(連合国軍占領下の日本)。また連合軍主導による軍事裁判で日独の戦犯を裁いた(ニュルンベルク裁判極東国際軍事裁判)。ドイツと日本を除く枢軸国とは1947年2月10日のパリ条約によって講和が行われた。

東欧の旧枢軸国はソ連の占領下に置かれ、ソ連主導の政府が作られていった。ポーランドやチェコスロバキアの亡命政府は復帰しようとしたものの、やがてソ連主導による新政府が設立され、ポーランド亡命政府は結局冷戦終了までロンドンに残ることとなった。ユーゴスラビアやアルバニアではパルチザンの主導する社会主義政府が成立し、亡命していた王国政府の復帰はかなわなかった。

こうして戦争中から発生しつつあったソ連と米英のズレはついに対立となり、1948年にはソ連がベルリンにつながる輸送路を封鎖する事件が発生する(ベルリン封鎖)など、冷戦が勃発した。このためドイツと朝鮮半島における占領地域はそのまま東西の勢力圏となり、分断国家の領域となった。1948年には朝鮮半島ではソ連占領地域の朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ占領地域の大韓民国が成立し、1950年6月25日に東西の代理戦争とも言える朝鮮戦争が勃発した。

日本における占領は1951年9月8日サンフランシスコ平和条約締結、1952年4月28日の条約発効によって終結した。その後日本は条約に参加しなかった連合国との平和条約・または戦争終結の合意を順次行った。ソ連および継承国ロシアとは戦争終結に関する宣言は出されたが、平和条約はいまだに調印されていない。

ドイツにおいては1945年7月6日に設置された連合国管理理事会(英語版)が統一統治を行う予定であったが、東西対立のため実行されなかった。1949年5月にソ連占領地域ドイツ民主共和国(東ドイツ)と、米英仏占領地域のドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立した。1955年には占領行政が終了したが、西ベルリンはなお米英仏の連合国軍統治下にあり、東ドイツにはソ連軍が駐屯していた(ドイツ駐留ソ連軍)。この状態は1990年まで続き、ドイツ再統一前のドイツ最終規定条約でようやく連合国とドイツの講和が成立した。ソ連軍が最終的に撤退したのは崩壊後のロシア軍に変わった1994年8月31日のことであった。
参戦順の連合国一覧
1939年
ポーランド侵攻


ポーランド(9月1日) - 10月6日に全土が占領され、以降はポーランド亡命政府が抗戦継続。

イギリス連邦(9月3日)

イギリス

イギリス領インド帝国

オーストラリア

ニュージーランド


フランス(第三共和政) (9月3日) - 1940年6月22日、独仏休戦協定を結び離脱。

ネパール(9月4日)

ニューファンドランド(9月4日) - イギリス植民地

南アフリカ連邦(9月6日) - イギリス連邦

カナダ(9月10日) - イギリス連邦

1940年
北欧侵攻


 デンマーク(4月9日のみ) - 4月9日以降ドイツの占領下。

 ノルウェー(4月9日) - 本土はドイツの占領下となり、ノルウェー亡命政府(英語版)が抗戦継続。

フランス・ベネルクス侵攻


ルクセンブルク(5月10日) - 5月10日に本土が占領され、以降はルクセンブルク亡命政府(英語版)が抗戦継続。

オランダ(5月10日) - 5月15日に本土が占領され、以降はオランダ亡命政府(英語版)が抗戦継続。

ベルギー(5月10日) - 5月28日に本土が占領され、国王が降伏。


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