連合国_(第二次世界大戦)
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12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始し、イギリス(オーストラリア、カナダ、南アフリカ、ニュージーランドを含む)とアメリカに宣戦布告、開戦した[10]第二次上海事変以来日本と交戦状態にあった(支那事変/日中戦争)中華民国も連合国として続けて日本と戦うとともに、ドイツとイタリアとの間にも宣戦布告をし連合国側に加わった。その後ドイツとイタリアもアメリカに宣戦し、戦域はほぼ全世界に及ぶ事となった。12月26日からはワシントンD.Cアルカディア会談などの会議が開催され、連合国側で参戦していた26カ国による宣言が準備された。
1942年「連合国は自由のため戦う」と記されたポスター。

1942年1月1日には連合国共同宣言が発表され、単独不講和などが取り決められた。2月にはアメリカとイギリスで作戦を協議する連合参謀本部が設立され、指揮統合のための準備が行われた。東南アジアでは日本軍の攻勢が続き、2月15日には英領マレー半島およびシンガポールが陥落、3月9日にはオランダ領東インド、6月9日にはアメリカの植民地のフィリピン全土が占領された(フィリピンの戦い (1941-1942年))。海戦でもジャワ沖海戦セイロン沖海戦など連敗が続いたが、6月25日のミッドウェー海戦日本海軍の主力空母を4隻撃沈するなど初めて勝利したが、以降もアメリカ本土空襲やオーストラリア空襲が行われるなど日本軍の攻勢が続いた。

独ソ戦ではドイツ軍の進撃も鈍り、スターリングラードを攻略しようとしていた第6軍は完全に包囲された(スターリングラード攻防戦)。また北アフリカではエルヴィン・ロンメル率いるドイツ軍に押され続けていた連合軍は10月24日のエル・アラメインの戦いで勝利し、11月8日にはトーチ作戦でフランス領アルジェリアに上陸、ヴィシーフランス軍の指揮官フランソワ・ダルラン将軍を寝返らせるなど、ようやく攻勢に転じ始めていた。
1943年

1月14日からはルーズベルト大統領とチャーチル首相の間でカサブランカ会談が開かれ、南イタリアへの上陸作戦を行うとともに、枢軸国に対して無条件降伏を求める方針が決定されたが、1月末に日本軍とアメリカ軍の間で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ軍は完敗するなど、枢軸国に無条件降伏を突きつけるには次期尚早であった。

2月2日にスターリングラードの第6軍は降伏し、ソ連軍の反攻が始まった。その最中の4月13日、ドイツ軍がスモレンスク近郊で大量のポーランド軍将兵の死体を発見し、ソ連軍によって虐殺されたと発表した。ポーランド亡命政府は真相解明を要求したが、ソ連はドイツのプロパガンダであると主張し、亡命政府と断交した(カティンの森事件)。

3月27日に行われたアッツ島沖海戦では日本とアメリカ軍の両方が大きな損害を受けたが、前年12月頃から続いていた第一次アキャブ作戦では、4月に日本軍がイギリス軍を破るなど、日本軍の勢いは続くかに見えた。

その後も日本軍は7月に行われたコロンバンガラ島沖海戦などで勝利を収めるものの、それに先立ち6月に起きたニュージョージア島の戦いで大きな被害を受けるなど、西はアフリカ大陸沿岸から、東はアメリカ西海岸沿岸までと、当初予定していたより戦線を広げ過ぎたにもかかわらず、1国でイギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランドなど複数の国と戦う日本の攻勢は弱まり、この頃は各地で両陣営の一進一退となる。

7月10日に連合軍はハスキー作戦を発動し、シチリア島に上陸した。イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らは連合軍との講和に動き、7月24日にはベニート・ムッソリーニ首相を解任、逮捕した。イタリア王国政府は9月8日に休戦を発表したが、ドイツはムッソリーニを救出した上でイタリア社会共和国(サロ政権)を建設し、イタリア北部で抵抗を続けた。カイロ会談で左から?介石ルーズベルトチャーチル

11月22日にはルーズベルト・チャーチル・?介石の三者会談によるカイロ宣言が発表され、日本の戦後処理などの方針が定められた。続いて11月28日からはルーズベルト・チャーチル・スターリンなどによるテヘラン会談が行われ、翌年春にフランスへの上陸作戦を行い「第二戦線」を築くこと、ポーランド国境の画定、ユーゴスラビアのパルチザン支援などが取り決められた。
1944年

昨年11月から日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍などの間で行われていたブーゲンビル島の戦いは、この年に入ると完全に日本軍の劣勢となっていく。また、2月3日に開始された第二次アキャブ作戦においても日本はイギリス軍に敗北し、インド攻略をあきらめざるを得なくなった。

6月6日には連合国遠征軍最高司令部総司令官ドワイト・D・アイゼンハワー陸軍大将の指揮によるノルマンディー上陸作戦(ネプチューン作戦)が実行され、アメリカ・イギリス・自由フランス軍などの連合国部隊がフランス北部に上陸し、第二戦線である西部戦線を形成した。8月25日にはパリを解放し、自由フランスによるフランス共和国臨時政府が成立した。9月にはマーケット・ガーデン作戦が失敗し、進撃は一時停滞したものの、10月22日にはアーヘンをドイツ本土で初めて占領するなど着実に戦果を拡大していた。しかし12月16日からドイツ軍の大規模な反攻作戦が開始され、バストーニュが包囲されるなど押し込まれた。連合軍は12月23日から反撃を開始し、迅速にドイツ軍を敗走させた(バルジの戦い)。

イタリアでは6月5日にローマを攻略し、8月11日にはフィレンツェまで至った。10月にはギリシャに上陸したが、王国政府の復帰は進まなかった(ギリシャ内戦)。

一方東部戦線の赤軍は、6月22日から大反攻を開始した(バグラチオン作戦)。猛攻によりドイツ軍は壊走し、赤軍は占領下にあった領土を奪回するとともにポーランド領の大半を占領した。7月21日には臨時政府ポーランド国民解放委員会(ルブリン政権)を樹立した。8月1日にワルシャワで国内軍による大規模な武力蜂起が発生したが、10月にドイツ軍に鎮圧された(ワルシャワ蜂起)。この蜂起は国内軍を支持していた亡命政府の指令によるものであり、亡命政府と断交していたソ連はこの蜂起に加勢せず、黙殺したとされている。またフィンランド・ルーマニア王国ブルガリア王国を枢軸国から脱落させ、ドイツに宣戦させた。12月にはハンガリーのほぼ全土を占領し、ハンガリー臨時国民政府を樹立させた。

太平洋及びアジア戦線でも連合国軍の優勢となり、3月から7月にかけて行われたインパール作戦ではイギリス、インド両軍が日本軍を破った他、6月19日に行われたマリアナ沖海戦でもアメリカ海軍が日本海軍の機動部隊を破りサイパン島マリアナ諸島を占領した。アメリカ軍は9月15日からはフィリピンへの上陸を開始し(フィリピンの戦い (1944-1945年))、10月23日から25日にかけてのレイテ沖海戦で日本海軍艦隊に大打撃を与えた。

政治面では7月にブレトン・ウッズ協定が結ばれ、国際通貨基金国際復興開発銀行の設立が決定された。8月21日からはダンバートン・オークス会議において国際連合設立に関する討議が行われた。イギリスは米ソの影響力を牽制する目的で「4人の警察官」にフランスを加えるよう主張し、5大国が安全保障理事会常任理事国となる戦後の体制作りが定まった。


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