連合国_(第二次世界大戦)
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これを受けて日本とドイツ、イタリアが急速に接近し、1936年には日独間で防共協定を締結、さらに1937年には日独伊防共協定に発展したことで、これらの3国は事実上の同盟関係を結ぶに至る。さらに同年に日本と中華民国との間で日中戦争が勃発したが、アメリカやイギリスは中華民国を全面的に支持し、これ以降日本とイギリス、アメリカなどとの間は修復不可能なほど険悪になっていた。
開戦前夜.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ルーズベルトチャーチルスターリン?介石ド・ゴール

1939年3月にドイツがミュンヘン協定を反故にしてチェコスロバキアを併合すると、ポーランド回廊ダンツィヒ自由都市といった係争地を抱えるポーランドとドイツの対立は明らかになった。イギリスは従来からの宥和政策から転じ、3月31日にはポーランドに対する軍事的脅威が迫った際には参戦すると声明し、8月15日にはイギリス・ポーランド軍事条約(en)が結ばれた。また、フランスも5月15日に新たな協定を結んで関係を強化した。

一方で英仏とソ連との間では協調も模索された。チェコ併合直後にソ連は欧州集団安全保障体制を提案したが、イギリスに拒否された。4月15日、英仏はソ連に対してルーマニア・ギリシャへの片務的安全保障体制を提案した。ソ連外相マクシム・リトヴィノフはこれを拒否し、4月17日には代案として英仏ソ三国同盟を提案した。しかしこの交渉中の5月1日にリトヴィノフは事実上更迭され、人民委員会議議長(首相)ヴャチェスラフ・モロトフが後任の外相となった。これはソ連の外交体制変更を告げるものであり[6]スターリンはドイツとの秘密交渉を開始した。英仏とソ連の交渉は対ソ不信の強いポーランドの拒否もあって成立せず、一方でドイツとソ連は8月24日に独ソ不可侵条約を締結した。この条約にはポーランドを独ソで分割する秘密協定も付属していた。
1939年

9月1日、ドイツがポーランド侵攻を開始した。イギリスはフランスと共同して参戦する予定であったが、ドイツと直接国境を接するフランスの対応は慎重であった。交渉がまとまった9月3日11時30分にイギリスはドイツに宣戦し、フランスも同日午後5時に宣戦を行い、両国の自治領・植民地も追随した。しかし英仏の動きは活発ではなく、イギリスがイギリス海外派遣軍(BEF)をフランス国内に派遣したが実際の交戦はせず、独仏国境地帯でのにらみ合いが続いた。この様子はまやかし戦争と呼ばれている。ポーランドは独ソ両国に占領され、9月17日に政府が国外に亡命し、一部の兵士はフランス軍やイギリス軍に入って戦争を継続した(ポーランド亡命政府)。またイギリスはチェコスロバキア亡命政府を承認し、亡命チェコ・スロバキア人も戦闘に参加するようになる。

ソ連が11月にフィンランドに宣戦すると(冬戦争)、連合諸国の間で反ソ感情が高まった。フランス首相エドゥアール・ダラディエはソ連との断交を提案したが、イギリスは拒否した。
1940年

2月17日にはドイツ海軍のタンカーアルトマルクが、ノルウェー領海でイギリス海軍に拿捕され、捕虜を奪還されるという事件が起きた(アルトマルク号事件)。この事件を容認したノルウェーは親連合国的であるとドイツは判断し、侵攻の準備を本格化した。

一方でフランス軍はなおもフィンランド救援をあきらめず、陸軍総司令官モーリス・ガムランなどはバクー油田を含むカフカース地方への攻撃を考慮していたが、イギリスを説得することはできなかった。フィンランド国内への援軍派兵も軍を通過させるスウェーデンの拒否に遭い、実現しなかった。3月13日、フィンランドがソ連と休戦協定を結ぶことを余儀なくされると、フランス国内ではフィンランドを救援できなかったダラディエ首相への批判と、即時対ソ宣戦を求める動きが起きた。3月20日、ダラディエ内閣は総辞職し、ポール・レノー内閣が発足した。レノーは政治基盤を左派に頼ったため、ミュンヘン会談でダラディエと決裂したように対独戦争に強硬だった[7]

4月9日、ドイツはヴェーザー演習作戦を発動し、ノルウェーとデンマークに侵攻を開始した。デンマークは即日降伏し、ノルウェーもドイツの激しい攻撃を受けた(ノルウェーの戦い)。国王ホーコン7世とその政府は英仏に協力を要請したが、オスロをはじめとする全土の大半はドイツの手に落ち、ヴィドクン・クヴィスリングの親独政権が樹立された。北大西洋がドイツの管制下に置かれることを恐れたイギリス軍は、5月7日にデンマークの同君連合国家であったアイスランドに侵攻し、占領下に置いた。

5月10日、ドイツは黄色作戦を発動し、ベルギー・オランダルクセンブルクへの侵攻を開始した。ルクセンブルク政府は即日、オランダ政府は5月12日に亡命し、軍は降伏した(オランダにおける戦い (1940年))。フランスやベルギーでもドイツ軍は猛威を振るい、5月27日にはベルギー国王レオポルド3世と軍がドイツに降伏し、政府はロンドンに亡命した。イギリス海外派遣軍とフランス軍の一部はダンケルクで包囲され、殲滅の危機にあったが、ダイナモ作戦によって救出され、イギリス本土に渡ることが出来た(ダンケルクの戦い)。6月8日にはノルウェー最後の拠点ナルヴィクが陥落し、ノルウェー政府も亡命に追い込まれた。「ナチス・ドイツのフランス侵攻」も参照

フランス軍は各地で撃破され、6月16日にはパリが占領された。フランス政府内では降伏の機運が高まり、抗戦を主張するレノー首相は辞職に追い込まれた。後継首相のフィリップ・ペタン元帥は降伏を指示し、6月18日にフランスは降伏した。休戦協定によってフランス北部は占領下に置かれ、フランス政府は南部を統治するヴィシー政権となって戦争から離脱した。しかしシャルル・ド・ゴールを始めとする一部のフランス将兵は国外に脱出し、交戦団体自由フランスとして戦争を継続した。また7月2日にはフランス海軍の艦艇を接収しようとしたイギリス軍とヴィシー政府海軍との間で交戦が発生し、フランス人の間で反英感情が高まった(メルセルケビール海戦)。

ヒトラーはイギリス本土攻略作戦(アシカ作戦)において航空機爆撃を重視し、さかんに空襲作戦を行った。この間の空における戦いはバトル・オブ・ブリテンと呼ばれ、ドイツ側に多大な損害を与えた。イギリスを屈服させられないヒトラーの視線は東に移り、ソ連攻略を計画し始めた。この間、ソ連は6月30日からラトビアリトアニアエストニアを占領したが、これは独ソ不可侵条約の秘密条項によるドイツの承認を受けたものだった(バルト諸国占領)。

9月27日に日本とドイツ、イタリアの3国は日独伊三国同盟を締結した。これは第二次世界大戦における枢軸国の原型となり、その後11月にハンガリールーマニアスロバキア独立国が加盟した。


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