沖縄ではクラブから大量に発生した空き瓶を利用して琉球ガラスが生まれた。
戦後に行われた学校給食への食糧援助には、アメリカで余剰品となった小麦や脱脂粉乳が充てられ、戦後世代の庶民にパンを主食として食べる食習慣が浸透した[28]。一方、昭和30年代までジャーナリズムや農学者を動員してコメ食を否定するキャンペーンが行われた。その背景には余剰穀物の受け入れ促進と、将来の食品市場の拡大を見越して日本人の食嗜好をより洋風的に変化させる意図があった[28]。進駐軍の基地周辺ではステーキやハンバーガー、ホットドッグなど、アメリカの国民食が庶民にも伝わった[29]。
年表[ソースを編集]
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出典検索?: "連合国軍最高司令官総司令部" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年10月)
1945年(昭和20年)
7月26日:連合国が連名でポツダム宣言を発表。
8月14日:日本政府がポツダム宣言の受諾を通告。昭和天皇が終戦の詔書を出す。
8月15日:昭和天皇が国民に向けてポツダム宣言の受諾を発表する(玉音放送)。鈴木貫太郎内閣総辞職。
8月17日:東久邇宮稔彦王内閣成立。
8月28日:テンチアメリカ陸軍大佐以下150名が横浜に初上陸し、連合国軍本部を設置。
8月30日:マッカーサー厚木飛行場に降り立つ。横浜税関の建物を接収して太平洋陸軍総司令部(AFPAC)を設置。
降伏文書に調印
9月2日:日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。
9月8日:連合国軍、東京を占領する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。
9月10日:「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)発令。連合国軍が検閲を始める。
9月15日:東京・日比谷の第一生命館を接収。
9月16日:連合国軍本部が横浜から第一生命館に移転。
9月17日:マッカーサー、東京の本部に入る。
9月18日:朝日新聞への二日間の発行停止を命令(SCAPIN-34)。
9月19日:言論統制のためのプレスコードが出される。
9月20日:連合国軍最高司令官の法的根拠を定めたポツダム緊急勅令が公布、同日から施行される。
9月22日:放送に対する検閲、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令。
9月27日:昭和天皇、GHQ本部へ行幸。密談が行われる。
10月2日:連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)設置。一般命令第4号により「民間情報教育局」が米太平洋陸軍総司令部(GHQ/USAFPAC)より移行[30]。
10月4日:自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令。
10月8日:事前検閲を朝日新聞、毎日新聞、讀賣報知、日本産業経済、東京新聞の在京五紙に対して開始。
10月9日:東久邇宮内閣総辞職し、幣原内閣が成立。
10月11日:女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。
10月15日:治安維持法の廃止。国内の日本軍、武装解除を完了。
11月18日:皇族資産凍結の指令。
12月6日:近衛文麿や木戸幸一など民間人9人の逮捕を命令。
12月7日:いわゆる農地解放指令(農地の小作人への分配)。
12月8日:太平洋戰爭史を全国の新聞へ掲載させる。
12月9日:農地改革を指示。眞相はかうだの放送を開始。
12月15日:神道指令を指示(政教分離等)。
12月31日:「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(覚書)(SCAPIN-519)を発令。修身、国史、地理の授業は中止、教科書は蒐集される。
1946年(昭和21年)
1月4日:軍人・戦犯・軍国主義者及び同傾向政治家などの公職追放を指示。
2月:イギリス連邦占領軍が本格的な日本進駐を開始。直ちに中国地方および四国地方の占領任務を、1945年9月より同地に進駐していたアメリカ軍から引き継いだ。
2月3日:マッカーサー、民政局長コートニー・ホイットニーに自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。