連合国軍最高司令官総司令部
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連合国軍最高司令官総司令部の命令、1945年(昭和20年)9月20日に出された勅令「「ポツダム宣言」の受諾に伴い発する命令に関する件」(昭和20年勅令第542号)に基づいて出された勅令、いわゆるポツダム命令[注釈 5]として国民へ公布・施行された。

司令部は最初に日本の軍隊大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍)を解体し、戦犯指定した人物を逮捕した。また思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、山崎巌内務大臣の罷免、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放(これらは「自由の指令」と俗称される)と、政治の民主化政教分離などを徹底するために大日本帝国憲法の改正、財閥解体農地解放などを指示した。

同年9月、占領下の日本を管理する最高政策機関としてイギリスアメリカ合衆国カナダ英領インドオーストラリアニュージーランドフランスオランダ中華民国ソビエト連邦米領フィリピンの11カ国と、後にビルマパキスタンで構成された極東委員会(FEC)が設置され、連合国軍最高司令官総司令部は極東委員会で決定された政策を執行する機関とされた。1946年(昭和21年)2月に極東委員会が召集され、同年4月に最高司令官の諮問機関として対日理事会(ACJ)が設置されるも、最大の人員と最高司令官を派遣し、戦闘部隊を派遣したアメリカ合衆国とイギリスが最も強い影響力を持ち続けた。中華民国は国共内戦が再燃し、フランスオランダは植民地支配、ソ連は東欧支配に集中しており、日本への影響力を行使できなかった。

1951年(昭和26年)4月11日アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンがマッカーサーを解任した後、米陸軍のマシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将へ昇進)が最高司令官に就いた。1952年(昭和27年)4月28日サンフランシスコ講和条約発効(日本の主権回復)とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を終了し、解体された。同時に、日本はイギリスやアメリカなどとの2か国間協定を結び、たとえば(旧)日米安全保障条約に調印して、アメリカ軍の国内駐留と治外法権などの特権、そして前年より継続して行われた朝鮮戦争への対応などのための駐留を認めた。
連合国軍最高司令官[ソースを編集]

代写真氏名在任期間任命権者
1ダグラス・マッカーサー[8]1945年8月15日[9]
- 1951年4月11日[8]第33代アメリカ合衆国大統領
ハリー・S・トルーマン[9]
2マシュー・リッジウェイ[8]1951年4月12日[8]
- 1952年4月28日[8]

本部[ソースを編集]接収された第一生命館。現DNタワー21(手前は皇居の外堀。後ろの高層部分は後に増築したもの。旧第一生命館は外観保存の上改築されたが、最高司令官執務室はそのまま保存されている。2011年撮影)

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当初は現在の横浜税関に置かれたが、後に皇居東京駅に挟まれた丸の内地区一帯のオフィスビルはその多くが駐留する連合国軍によって接収され、このうち総司令部本部は第一生命館に置かれた。マッカーサー用の机は石坂泰三のものをそのまま使用した。

第一生命保険側は占領下では第一生命館の接収が免れ得ない事を承知しており、当時では最新のオフィスビルであった当館を司令部として使う優位性を説明し採用されたものである。


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