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出典検索?: "連合国軍最高司令官総司令部"
1945年(昭和20年)8月14日に日本政府(鈴木貫太郎内閣)が受諾通告したポツダム宣言では、日本を占領する組織はoccupying forces of the Allies(「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。同年9月2日に締結された降伏文書の中では、日本政府はSupreme Commander for the Allied Powers(「聯合国最高司令官」)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。この後も日本の法令では「聯合国最高司令官」(連合国最高司令官)と表記されることが多い。連合国最高司令官の下に属する組織は英語表記によればGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers(GHQ/SCAP)で「連合国最高司令官総司令部」「連合国総司令部」と日本語訳され、日本では多くの場合に略称のGHQ(ジー・エイチ・キュー)と呼称[注釈 1]している。
他方で「軍」を補って、「連合国軍最高司令官」や「連合国軍最高司令官総司令部」または「連合国軍総司令部」のように呼ばれることも多い[注釈 2]。
概要駐日アメリカ合衆国大使館の米陸軍マッカーサー最高司令官(左)を訪問した昭和天皇(右)、1945年(昭和20年)9月27日撮影[注釈 3]広島県呉市内を行進する英領インド陸軍の王立第5グルカ銃連隊(1946年)
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出典検索?: "連合国軍最高司令官総司令部" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年10月)
連合国軍最高司令官総司令部は、第二次世界大戦における日本の有条件降伏である「ポツダム宣言」の執行のため日本に設置された連合国による機関である。
ハリー・S・トルーマン大統領は1945年(昭和20年)8月14日(アメリカ大西洋時間)、南西太平洋戦域(英語版)最高司令官兼太平洋陸軍最高司令官[注釈 4] ダグラス・マッカーサー元帥を連合国軍最高司令官(SCAP)に任命した。
職員はコートニー・ホイットニーら弁護士資格を持つアメリカ合衆国軍人や、イギリス軍人、オーストラリア軍人、アメリカやイギリスの民間人ら多数で構成され、同年10月2日に総司令部が東京都に設置された。
日本を軍事占領すべく派遣されたアメリカ軍、中国軍、イギリス軍、ソ連軍、オーストラリア軍、カナダ軍、フランス軍、オランダ軍、ニュージーランド軍、インド軍、フィリピン軍など連合国各国の軍隊から派遣された最大43万人を統括し、その大多数を占めたイギリス軍をはじめとしたイギリス連邦諸国軍を中心に構成されたイギリス連邦占領軍(BCOF)と、アメリカ陸海軍を中心に構成されたアメリカ占領軍(USOF)が連合国軍最高司令官の直下に指揮され、イギリス連邦占領軍が中国・四国地方を担当し、残る都道府県はアメリカ占領軍が担当[9]した。
日本の占領方式は、総司令部の指令を日本政府が実施する間接統治が採られ、GHQは統治者の天皇ではなく日本国政府へ関与し、連合国軍最高司令官総司令部の指示や命令を日本政府が日本の政治機構で政策を実施した。連合国軍最高司令官総司令部の命令、1945年(昭和20年)9月20日に出された勅令「「ポツダム宣言」の受諾に伴い発する命令に関する件」(昭和20年勅令第542号)に基づいて出された勅令、いわゆるポツダム命令[注釈 5]として国民へ公布・施行された。
司令部は最初に日本の軍隊(大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍)を解体し、戦犯指定した人物を逮捕した。また思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、山崎巌内務大臣の罷免、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放(これらは「自由の指令」と俗称される)と、政治の民主化や政教分離などを徹底するために大日本帝国憲法の改正、財閥解体、農地解放などを指示した。
同年9月、占領下の日本を管理する最高政策機関としてイギリス、アメリカ合衆国、カナダ、英領インド、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、中華民国、ソビエト連邦、米領フィリピンの11カ国と、後にビルマとパキスタンで構成された極東委員会(FEC)が設置され、連合国軍最高司令官総司令部は極東委員会で決定された政策を執行する機関とされた。1946年(昭和21年)2月に極東委員会が召集され、同年4月に最高司令官の諮問機関として対日理事会(ACJ)が設置されるも、最大の人員と最高司令官を派遣し、戦闘部隊を派遣したアメリカ合衆国とイギリスが最も強い影響力を持ち続けた。中華民国は国共内戦が再燃し、フランスとオランダは植民地支配、ソ連は東欧支配に集中しており、日本への影響力を行使できなかった。
1951年(昭和26年)4月11日にアメリカ合衆国大統領のハリー・S・トルーマンがマッカーサーを解任した後、米陸軍のマシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将へ昇進)が最高司令官に就いた。1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効(日本の主権回復)とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を終了し、解体された。