日本が完全に主権を回復する前から、政府は公職追放該当者の追放解除を行ってきた。軍事費用や天皇の主権についての議論はまだ続いていて、1952年10月の連合国占領後初の選挙において自由党の権力の減少につながった。そして、1954年、自衛隊が設置された。冷戦や朝鮮戦争も、アメリカ合衆国に影響された経済発展につながった。また、日本を自由主義陣営に入れるために、アメリカは、多岐にわたる大規模な対日文化外交を展開した[2]。
日本国内での政党の解散・結党は続き、1955年11月には保守勢力である自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が結成された。その一か月前の10月には、社会党再統一が行われていた。これにより、55年体制が成立した[3]。そして1964年に創価学会を支持団体として公明党が結党され、初出馬の第31回衆議院議員総選挙(1967年)で社会党と民社党に続く野党となった[4]。1975年まで、公明党は社会党と同様に、日米安全保障条約の破棄を主張していた[5]。 1972年に内閣総理大臣に就任した田中角栄は、1974年の金脈問題がきっかけとなり、同年12月に総辞職した。そして、約2年後にロッキード事件が明るみに出ると、田中は逮捕、起訴された[6]。しかし、事件の係争中も、田中は自民党の最大派閥(田中派)を率い、数々の内閣を誕生させるなど、1985年に竹下登が派閥を割るまで、「闇将軍」として政界での影響力を持ち続けた[7]。 1970年代後半になると、公明党と民社党は日米安保条約を破棄するという主張を減らすようになった。日米安保条約に強い反対を示していた社会党も、厳格な反軍事的な立場を捨てることを余儀なくされた。反軍事的な主張が減っていく中、1976年11月、自衛隊創設後の日本の防衛費は無限に増え続けるのではないかという国内外の懸念を踏まえ、三木改造内閣によって防衛費1%枠が閣議決定された[8]。 わずか1ヵ月後の同年12月、三木武夫首相の任期満了に伴い、いわゆるロッキード解散が行われ、第34回衆議院議員総選挙が行われた。首相の4年の任期満了に伴う衆議院解散は戦後初であったが、1955年の結党以来、自民党の議席は初めて過半数を割った[9]。 1980年6月12日、当時総理大臣であった大平正芳(自民党)が死去した。現職総理の死去は戦後初であった。同年6月22日に行われた初の衆参同時選挙(第12回参議院議員通常選挙・第36回衆議院議員総選挙)では、弔い選挙となった自民党が圧勝し、西村裁定によって鈴木善幸が総理大臣となった[10]。しかし、第一次教科書問題や財政問題に直面し、1982年10月に突然、同年に行われる党総裁選への不出馬を表明した。 鈴木が不出馬を表明した1982年の自民党総裁選では、中曽根康弘が当選し、同年11月に自民党総裁と第71代内閣総理大臣に就任した。中曽根は、田中角栄の全面的な支持を受けていたことから、「田中曽根内閣」などと揶揄されていた。しかし、中曽根内閣の支持率は高く、50%以上に上ることもあった[11]。第2次中曽根内閣が成立するころには、中曽根は国会の中でも強い位置を保持していた[12]。 1983年10月、ロッキード事件被告人の田中角栄元首相に対し、懲役4年、追徴金5億円の判決が下った[13]。田中の判決が出てからわずか1か月後、衆議院が解散され(田中判決解散)自民党は過半数割れしたものの、新自由クラブとの連立を樹立し、第2次中曽根内閣を発足させた[9]。1987年11月の第3次中曽根内閣総辞職の15か月前には、自民党が第38回衆議院議員総選挙にて300席を獲得、圧勝していた[14]。しかし、政府は、バブル景気による地価高騰や、インフレーション、3.2%に上る失業率などの問題に直面した。1987年10月20日、自民党総裁任期の満了を控えた中曽根は次期総裁に同党幹事長の竹下登を指名した(中曽根裁定)。指名した当日、ブラックマンデーの影響で、日経平均株価は過去最大の暴落を起こした[15]。 戦後初期は、戦争中に失われた産業の復興にささげられ、電気、石炭、鋼や化学薬品への出資が多くされた。朝鮮戦争の特需もあり、1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回り、国民生活も安定していた。軍部に支配された政府の要求から解放された経済は、戦争中での失速からの回復だけでなく、成長率が急上昇し、戦前のそれを上回った(高度経済成長)。1956年に発表された経済白書には、戦後の日本の復興が終わったことを指して『もはや「戦後」ではない』と記述され、流行語にもなった[16]。1960年、池田内閣は、10年間で国民総生産(GNP)を2倍以上に引き上げ、西欧諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」を発表、全国の重工化工業化を図り、日本経済を高度成長の軌道に乗せた[17][18]。1953年から1965年の間、GDPは年間9%以上、製造業と鉱業は13%、建設業は11%、インフラストラクチャーは12%以上拡大した[19]。所得倍増計画の目標は、発表後7年で達成された[17]。 1964年東京オリンピックの開催のため、東海道新幹線や首都高速道路などのインフラや、国立競技場、日本武道館などの競技施設の整備が必要となり、建設業などに特需を生み出した。
1970年代
1980年代
経済詳細は「日本経済の歴史」を参照