妻は同じく声優の五十嵐麗、甥(現養子)は声優の速水秀之[5]。 兵庫県高砂市出身[5][6][7][8]。男3人兄弟の末子として生まれる[4][5][7]。 父は沖縄県出身で、戦時中は少年飛行兵に志願していた県庁の納税係の公務員[5]。2人の兄は教師、サラリーマン[8]。 高砂市にあった生家は県営住宅であり、50坪の土地に井戸を囲む形で並んでいた4軒の平家の1軒に住んでいたが、速水が生まれる前に買い取って持ち家にしていたという[5]。 幼少期は兄達に連れられて山、川を駆け巡って、擦り傷だらけだった[4]。 小学校(高砂市立阿弥陀小学校)時代は神童と呼ばれていた長兄の七光りもあって、低学年の頃から一目置かれていた[5]。小学校の6年間から中学3年生まで一学期の学級委員長を務め、学芸会の主役などに抜擢されていた[4][5][7]。当時は2人の兄が委員長になっていたため、おこぼれにあずかったという形で、怖いものがなかった[7]。しかしどこかで兄達の力を頼っていたようだった[7]。 好きだった課目は国語で、本を朗読すること、喋るのが好きでだったため、「なんとか僕を当ててくれないかな」と教師を見ていた[4]。アナウンサーになりたいと思っていた時期が結構長かったという[4]。 小学校6年生で健康優良児として表彰される[7]。1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得した男子バレーボールに憧れて、中学(姫路市高砂市中学校組合立天川中学校[5][8])時代はバレーボール部に所属してエースアタッカーとキャプテンを務める[4][7]。ほかにも園芸クラブと郷土史研究クラブにも所属していた[3]。高校(兵庫県立加古川東高等学校[5][8])でも1年目はバレーを続けたが、身長が伸び悩んだことで退部した[3][7][12]。
経歴
生い立ち