日解連メンバー唯一の生存者である平沢によると、南大営の移動については、街に分散して日本人が住んでいると管理が難しく国民党軍に通じる者が出て危険である事、日本人が難民救済にあまり協力しなかったためにショック療法であろうとしている。日解連の幹部会では南大営の移動を止めるためには日解連が悪者になって表面に出て平均運動を進めるしかないという結論になったという[5]。日解連が嘆願を続けると、中国共産党は先に命じていた移動を見合わせる条件として、日本人民解放連盟は中国共産党の指令に従い、日本人男子15歳以上60歳迄の強制徴用と使役、日本人居留民に対し財産を全て供出し再配分すること、日本人民解放連盟に中国共産党側工作員を採用することを命じた[35]。
前記の使役については、ソ連支配時代から始まったもので、各地区に割り当てられ、成年男性は3日に一度の割で飛行場建設等の労役を負担しなければならなかったという。賃金も出なかったとされ、男性の場合は厳しい肉体労働で、日本人居留民はこれをとくに嫌がっていた。とくに生業のある者にとっては、その日は自身の仕事が出来ず、不利益に感じられていた。一方で、通化市管轄内であるものの郊外の二道江のことになるが、そこに避難した者が老若男女問わず一般の使役の仕事が一日5円の賃金で、どうでもいいような作業もあり失業対策の面もあるではないかと考えたという手記がある[5]。とくに9月末から11月のインフレ期に住民の着物の切り売りや自ら使役に出るものが増えた事が記されていたり、共産党軍側にとっては彼らの理想とする平等な形で仕事をする社会建設のための平均運動の一環として行っていた事が考えられ、邦人側の非難もあくまで持てる立場の者からの自己都合である事も否定できない。邦人側でも、平沢博人の『通化春秋』(謙光社、1986年)など、多くの困窮者や難民がいる中で、平均運動などに協力しようとしなかった者らへの批判の声はある[5]。
11月17日、中国共産党軍は大村卓一を満鉄総裁であったことを罪状として逮捕した[33]。
日の丸飛行隊飛来一式戦闘機(隼)
12月10日、通化に日章旗を付けた飛行隊が飛来し、日本人居留民は歓喜した。飛行隊は林弥一郎少佐率いる関東軍第二航空軍第四錬成飛行隊であり、一式戦闘機(隼)、九九式高等練習機を擁していた。隊員は300名以上が健在であり、全員が帝国陸軍の軍服階級章を付け軍刀を下げたままであった。また、木村大尉率いる関東軍戦車隊30名も通化に入ったが、航空隊と戦車隊の隊員は全員が中国共産党軍に編入されていた[注釈 5]。
12月15日、通化飛行場で飛行テストをしていた林弥一郎少佐は搭乗機のエンジン不調のため渾江の河原に不時着しようとして渡し舟のロープに脚をひっかけて墜落し、負傷した[36]。
中国共産党の根拠地延安からは、日本人民解放連盟で野坂参三(戦後日本共産党議長)に次ぐ地位にあり、当時「杉本一夫」の名で活動していた前田光繁が政治委員として派遣された。
蜂起の流言藤田実彦
このような状況下、「関東軍の軍人が中華民国政府と組んで八路を追い出す」という流言が飛び交った。日本人も国民党系の中国人も、この噂を信じた。そしてその軍人とは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた藤田実彦大佐とされた。藤田大佐は終戦後、武装解除を待たずに師団を離れ、身を窶して家族共々通化を離れ石人鎮(中国語版)(当時は石人と呼称・現在は吉林省白山市の一部)に潜伏していた。同年11月頃には中国共産党側に発見され、藤田に利用価値を見出す劉司令によって、しばらくは自由が認められていたとする説もあるが、最終的には八路軍の軍人が藤田の許を訪れて連行され、司令部のある龍泉ホテルに監禁された。彼と個人的に会った時の思い出から藤田に思い入れのある作家の松原一枝は、藤田はこのような無謀な企ては止めさせようと考えていたに違いないと信じ、流言を知った藤田は説得に行くとして八路軍関係者と共に通化へ向かったに違いないとする[37]。これが藤田と家族との別れになった[38]。 11月4日とも12月23日ともする説があるが、「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」などのスローガンのもとで日本人民解放連盟と日僑管理委員会の主催で通化日本人居留民大会が通化劇場で開かれた。大会には劉東元司令を始めとする中国共産党幹部、日本人民解放連盟役員らが貴賓として出席し、日本人居留民3000人が出席した。大会に先立って、日本人居留民たちは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた藤田実彦大佐が大会に参加すると伝え聞いており、大会の日を待ちかねていた。 大会では、元満洲国官吏井手俊太郎
日本人居留民大会