1871年(明治4年)4月20日の郵便創業時、郵便事業は宿駅制度をつかさどる駅逓司の所管であり、初代駅逓頭は濱口梧陵(7代目濱口儀兵衛 ヤマサ醤油創業家当主 「稲むらの火」のモデル)であるが、近代郵便事業の展開は第2代駅逓頭前島密(制度開始当時は駅逓権頭として英国視察中)の指導の下進められた。この駅逓司は民部省・大蔵省・内務省・農商務省と所属が変わる間に駅逓寮・駅逓局と昇格。1885年(明治18年)に逓信省が設立されるとその所属となった。
1887年(明治20年)には「〒」マークが制定された。これは逓信省の頭文字「テ」をデザイン化したものであるとされる(詳細は郵便記号の項を参照)。1900年(明治33年)にはそれまでの郵便規則・郵便条例・小包郵便法などが統合され(旧)郵便法が制定された。1920年(大正9年)には貯金局と簡易保険局が設けられた。1928年(昭和3年)には簡易保険局がラジオ体操を制定した。その後郵便事業は通信院・逓信院・復活した逓信省を経て、郵政省に受け継がれることになる。 工部省の所管であった電信事業は逓信省に受け継がれ、1890年(明治23年)には電話事業も管轄するようになった。以降電信と電話の所管は一貫して逓信省(および通信院・逓信院)のものであったが、1949年(昭和24年)に省が解体(郵電分離)されると電気通信省へと移った。なお電気通信省は1952年(昭和27年)に日本電信電話公社に改組され、その監督は郵政省が行うこととなった。 民間船舶に関する事務は農商務省商務局管船課が行っていたが、1882年(明治15年)に管船局へと昇格した。1885年(明治18年)に内閣制度が創設されると逓信省の管轄とされた。1896年(明治29年)には海難審判制度を定めた「海員懲戒法 ワシントン海軍軍縮条約脱退後の国際情勢悪化の可能性を見込んで、1936年(昭和11年)から標準船制定の動きが起きた。日華事変中の1939年(昭和14年)4月に正式決定され、造船量の増大や効率化を目的に大小貨物船6形式が計画された。その後日本のパナマ運河経由ニューヨーク航路の高速貨物船(いわゆるニューヨークライナー)に相当するL型が計画されるが、さらなる情勢悪化により中止。艦隊随伴用大型タンカーのTL型、蘭印向け中型タンカーのTM型、鉱石運搬船のK型が追加された。また、D型とE型の中間に当たるH型も計画されたが、こちらは計画のみに終わった。後の戦時標準船の制定により平時標準船とも呼ばれ、第1次戦時標準船はこの型式をベースにして設計されている。 ※以下、諸元は総トン数・機関・最大速力の順
電信・電話
海事
逓信省標準船
A型(タービン6,300トン・ディーゼル6,200トン・レシプロ6,400トン、タービンorディーゼルorレシプロ、タービン&ディーゼル15.5ノット・レシプロ15ノット)
6船倉式三島型貨物船。タービン船は建造されなかったが、ディーゼル船が浅野造船所(現・ジャパン マリンユナイテッド)で1隻、レシプロ船が川南工業香焼島造船所(三菱重工を経て現・大島造船所香焼工場)で7隻建造された。うちレシプロ船は非公式で、レシプロ船とディーゼル船とは、4番船倉用デリックポストの位置が異なる。全て大東亜戦争で戦没した。5tデリック×12基を搭載、25tデリック×1基を搭載した。
B型(4,500トン、タービンorレシプロ、14.5ノット)
5船倉式三島型貨物船で、川崎造船所(現・川崎重工業神戸工場)等で14隻が計画され、10隻が建造された。主機は建造中止船を除くと、レシプロ船が3隻で、残りはタービン船である。うちレシプロ船1隻、タービン船2隻は応急タンカーに改装されている。9隻が大東亜戦争で戦没し、終戦時残存したのは1隻のみである。準同型として、三菱重工業(現・三菱造船)神戸造船所にて第三伏見丸(増田合名、4,929トン)[注釈 1]、浦上丸(福洋汽船、4,317トン)が建造されている。