逓信省
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旧郵政省・総務省はこの土地に建てられた逓信ビル、東京郵政局庁舎、東京国際郵便局を解体するまで、印刷局に賃料を支払っていた[8]。詳細は「逓信総合博物館#沿革」および「国会議事堂#歴史」を参照「国立印刷局#歴史」および「東京逓信病院#旧跡・旧建物」も参照

逓信省飯倉庁舎(旧貯金局庁舎)
郵政省本庁舎などを経て、日本郵政グループ飯倉ビル(2019年解体済み)

第三期 - 麻布区飯倉町(港区麻布台)

大手町の木造仮庁舎が余りにも長く続いた後、1943年(昭和18年)秋に、当時貯金局が使用中の飯倉庁舎(現・日本郵政グループ飯倉ビル)を通信院の本庁舎として移転使用することとなった。この庁舎は、紀州徳川侯爵家の邸宅跡地に建設され、1931年(昭和6年)から貯金局が使用していたものである。なお、この飯倉庁舎の所在地を俗に"狸穴"と呼ぶことが多く、そのためこの場所の旧町名も狸穴町であったものと混同されがちだが、狸穴町を旧町名としていた区域は飯倉庁舎とは道路を挟んで反対側のロシア大使館周辺である。詳細は「麻布狸穴町#残された旧町名」および「港区 (東京都)#町名」を参照

飯倉町の庁舎は通信院から逓信院を経て逓信省復活後も引続き使用され、二省分離後も郵政省と電気通信省とが共用していた。電気通信省は日本電信電話公社への移行後しばらくして赤坂葵町(現虎ノ門)に仮移転したが、郵政省は1969年(昭和44年)7月の霞が関移転まで長らく飯倉に本省を置いた。詳細は「郵政省#旧本庁舎(飯倉ビル)」および「麻布台ヒルズ郵便局#旧局舎(飯倉ビル)」を参照


所管業務
郵便

1871年(明治4年)4月20日の郵便創業時、郵便事業は宿駅制度をつかさどる駅逓司の所管であり、初代駅逓頭は濱口梧陵(7代目濱口儀兵衛 ヤマサ醤油創業家当主 「稲むらの火」のモデル)であるが、近代郵便事業の展開は第2代駅逓頭前島密(制度開始当時は駅逓権頭として英国視察中)の指導の下進められた。この駅逓司は民部省大蔵省内務省・農商務省と所属が変わる間に駅逓寮・駅逓局と昇格。1885年(明治18年)に逓信省が設立されるとその所属となった。

1887年(明治20年)には「〒」マークが制定された。これは逓信省の頭文字「テ」をデザイン化したものであるとされる(詳細は郵便記号の項を参照)。1900年(明治33年)にはそれまでの郵便規則・郵便条例・小包郵便法などが統合され(旧)郵便法が制定された。1920年(大正9年)には貯金局と簡易保険局が設けられた。1928年(昭和3年)には簡易保険局がラジオ体操を制定した。その後郵便事業は通信院・逓信院・復活した逓信省を経て、郵政省に受け継がれることになる。
電信・電話

工部省の所管であった電信事業は逓信省に受け継がれ、1890年(明治23年)には電話事業も管轄するようになった。以降電信と電話の所管は一貫して逓信省(および通信院・逓信院)のものであったが、1949年(昭和24年)に省が解体(郵電分離)されると電気通信省へと移った。なお電気通信省は1952年(昭和27年)に日本電信電話公社に改組され、その監督は郵政省が行うこととなった。
海事

民間船舶に関する事務は農商務省商務局管船課が行っていたが、1882年(明治15年)に管船局へと昇格した。1885年(明治18年)に内閣制度が創設されると逓信省の管轄とされた。1896年(明治29年)には海難審判制度を定めた「海員懲戒法」が公布され、翌年には海員審判所が設立された。大東亜戦争太平洋戦争第二次世界大戦)開戦直後の1941年(昭和16年)12月19日、海運の国家統制を目的に、海事に関する業務は海務院へと移された。
逓信省標準船

ワシントン海軍軍縮条約脱退後の国際情勢悪化の可能性を見込んで、1936年(昭和11年)から標準船制定の動きが起きた。日華事変中の1939年(昭和14年)4月に正式決定され、造船量の増大や効率化を目的に大小貨物船6形式が計画された。その後日本のパナマ運河経由ニューヨーク航路の高速貨物船(いわゆるニューヨークライナー)に相当するL型が計画されるが、さらなる情勢悪化により中止。艦隊随伴用大型タンカーのTL型、蘭印向け中型タンカーのTM型、鉱石運搬船のK型が追加された。また、D型とE型の中間に当たるH型も計画されたが、こちらは計画のみに終わった。後の戦時標準船の制定により平時標準船とも呼ばれ、第1次戦時標準船はこの型式をベースにして設計されている。

※以下、諸元は総トン数・機関・最大速力の順
A型(タービン6,300トン・ディーゼル6,200トン・レシプロ6,400トン、タービンorディーゼルorレシプロ、タービン&ディーゼル15.5ノット・レシプロ15ノット)
6船倉式三島型貨物船。タービン船は建造されなかったが、ディーゼル船が浅野造船所(現・ジャパン マリンユナイテッド)で1隻、レシプロ船が川南工業香焼島造船所(三菱重工を経て現・大島造船所香焼工場)で7隻建造された。うちレシプロ船は非公式で、レシプロ船とディーゼル船とは、4番船倉用デリックポストの位置が異なる。全て大東亜戦争で戦没した。5tデリック×12基を搭載、25tデリック×1基を搭載した。
B型(4,500トン、タービンorレシプロ、14.5ノット)
5船倉式三島型貨物船で、川崎造船所(現・川崎重工業神戸工場)等で14隻が計画され、10隻が建造された。主機は建造中止船を除くと、レシプロ船が3隻で、残りはタービン船である。うちレシプロ船1隻、タービン船2隻は応急タンカーに改装されている。9隻が大東亜戦争で戦没し、終戦時残存したのは1隻のみである。準同型として、三菱重工業(現・三菱造船神戸造船所にて第三伏見丸(増田合名、4,929トン)[注釈 1]、浦上丸(福洋汽船、4,317トン)が建造されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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