迷宮_(同人サークル)
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脚注[脚注の使い方]^ 「迷宮代表は、今回もコロナ禍下における有料チケット制についてはいかがなものかということで欠席。」堀内満里子『21世紀通信 2022冬』(コミックマーケット101にて頒布/2022年12月31日)1P
^ a b c 「自分は迷宮メンバーではありませんが、亜庭さんに頼まれてスペースを守っています。今の迷宮代表は、コロナ禍下での開催のやり方に異論があるので来ません。まあ迷宮も現役で活動できるのは一人だけになってしまったな。」「(今の代表は)霜月たかなかさんです。その名義で申し込んでいます。他の主要メンバーはもう、死に絶えたも同然。」堀内満里子のツイート 2022年8月12日
^ 亜庭じゅん「マニア運動体論・序説 ──方法の問題── マニアに未来はあるか!?」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)478P
^ 亜庭じゅん「寄稿 まんがせえる ファイナルレポート」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)679P
^ “100回目のコミックマーケット 「SPY×FAMILY」などコスプレで楽しむ参加者の姿” (2022年8月14日). 2022年8月15日閲覧。
^ 「迷宮を始めるに当たってメンバーは、3000円ずつ最初に出している。コピー機の購入などにあてるためだ。その後、資金となったのは本の売り上げ、予約金だった。コミケットも迷宮から借金しながら77年頃までは開かれることになっていく。それと、当日集まったカンパによって、なんとかなっていたというのが実状である。準備会が立ち上がってからも、迷宮への借金は残ったままの形となり、コミケット永久スペース提供という約束が交わされ、それは今も続けられている。」米澤嘉博「前史」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット 2005年7月25日)29P
^ 「高宮さんが原田さんに『亜庭じゅんっていうのが東京にいるから、場を持ってみたら?』と推薦して、あにじゅんに声をかけて、米やんにも声をかけてみんなで会ったのが始まりです。西と東の連中5人が1975年の4月に新宿のカトレアって喫茶店に集まって、そのメンバーでなんとなく活動を始めました。」式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)160-161P
^ 「命名の場所は珍しく新宿の喫茶店であった(たしか『カトレア』であったと思う)。『黒い稲妻』とか色々案は出たのだが、これというものが無く困っていたが、亜庭氏が『迷宮』と言ったとたん、皆『それだ』ということになり、あとは一気呵成、迷宮(ラビリンス)の後ろに年号を入れようとか、会報名は山上たつひこ氏の『喜劇新思想大系』をもじって『漫画新批評大系』としたり、コラム名を『アリアドネの糸』にしようとか次々に決まっていった。」明石良信『昔話1 始まり編』2006年12月5日 mixi
^ a b 「『COM』なき時代にまんがに対して、単なるマニアが何をできるのか?/答えを求め、読者の側からまんがに働きかけようと有志が集まり、まんが評論サークル『迷宮』が発足した。/そして『まんが同人によるまんが同人誌即売会』の発想を得てその開催を画策した時、まずもって僕らが心掛けたのは、日本中のまんがサークルのネットワーク化を構想した『ぐら・こん』構想の、挫折の愚を繰り返さぬこと。即ち『COM』を、目的実現のための反面教師とみなすことだったのはなんという皮肉だろう。」原田央男「『COM』の残滓と『コミケ』黎明期の熱い季節」『東京人no.341』(東京出版 2014年7月3日)37P
^ 「『迷宮』の結成、漫画新批評大系の刊行とコミックマーケットの開催は、COMの崩壊後、自分たちで始めた『ぼくらの延長戦』だったが、亜庭じゅんは、『MGM』で更にその先を一人で戦い続けた。」高宮成河「後記」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)830P
^ a b 「正確にいえば僕らが作ったのはサークルでもクラブでもない。そこに集まって運動をなす者が構成員となるいわば『場』であって、その場に集う者が状況の中心になることを目指すことがその活動となる。そこまでいってしまうとさすがに建前になるかもしれないが、とにかく会員制ではなく、そのかわり活動の責任を負う構成員として僕や亜庭じゅん、米やんなどがいたのだということをわかってもらえればと思う。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)117P
^ 「このI嬢(引用者注:石川妙子)はその後、相思相愛の式城京太郎と1977年4月に結婚。幸せな生活を送っていたが、87年に不慮の事故により帰らぬ人となってしまった。『漫画大会を告発する会』結成のきっかけとなったことで、コミックマーケットの設立をも大きく促したことになる彼女の他界は、その時すでにまんがファン活動から離れていた僕にとっても最大の痛恨事となった。再会のかなわぬ記憶のなかの人となってしまったことが、今でも残念でたまらない。」霜月たかなか『コミックマーケット創成記』朝日新聞出版(朝日新書)2008年, Kindle版, 位置No.全2936中 1862 / 63%。ISBN 978-4022732507
^ 「迷宮が対しようとしていたのは、スポ根や学園ラブコメに堕ちた商業誌マンガであり、旧態依然のマンガ評論であり、BNF(ビッグネームファン)など自閉した遊びに堕ちていったマンガファンダムであり、また『COM』の幻想に引きずられているファンたちであり、何も考えていない新興の若い世代だった。全てを解体した上で、混迷の状況の中に新たなマンガ状況を創り出して行くこと。その中には漫画大会や、コレクターたち中心のマンフェスへの決別の意志も含まれていた。そして、そうした中で、状況に検討を加え、新たな芽を育てていくこと。/そこに持ち込まれた漫画大会拒否事件は、早急に手をつけなければいけない問題でもあったのである。」米澤嘉博「前史」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット 2005年7月25日)27P
^ 「『迷宮』の結束がすごく固まったのは共通の敵が生まれたことで、それが漫画大会でした。以前からボランティアの警備係が官僚的というか、虎の威を借る狐というか、サングラスをして威張って非常に感じが悪かった。主催者の側はまあ任せるよって程度だったと思うんですけれど、そいつに象徴されるようなお役人的な雰囲気があって、それに対する反発があったんです。そこにきて参加者を拒否するって事件が起きたんです。石川妙子なんですが、参加申込書の隅にその警備係や漫画大会への批判的なことを書いたんです。そうしたら主催者の側から参加を拒否しますって書状が届いたんですね。それで当時私が恋人だったもんですから、私のところにこんなことされちゃいましたって同封されてきて、それを『迷宮』の集会で見せたんです。そうしたら、みんな盛り上がっちゃって『漫画大会を告発する会』を立ち上げて。」式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)161P
^ 「が然、集会は騒がしくなっていった。その頃、迷宮の集会はもっぱら、新宿丸井の屋上のテラスで行われていた。イスと机があり、冷水飲み放題(う?ん、貧乏)という嬉しさ、そのうえ何時間ねばっても追い出されないというよさがあった。なんと、この『マルイ』テラスの集会は、同年(1975)9月から『コミケット定例企画集会』として毎週日曜開かれるようにさえなっていた。/迷宮から派生する形で『漫画大会を告発する会』が結成されたのは7月のことだ。
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