1979
1980
1989
2001
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(4回)
(太字は勝利した年)
0勝4敗
1979
1980
1989
2001
プレーオフ(前後期制)出場(3回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)
2勝1敗
1975
1979
1980
球団組織
オーナー田代和(解散時)
運営母体近畿日本鉄道(解散時)
球団社長小林哲也(解散時)
監督梨田昌孝(解散時)
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株式会社大阪バファローズ
Osaka Buffaloes種類株式会社
本社所在地大阪府大阪市天王寺区上本町6-1-55(登記上本店)
大阪府大阪市中央区難波2-2-3 御堂筋グランドビル7階
(球団解散時の事務所)
設立1999年9月
(株式会社大阪近鉄バファローズとして設立)
業種サービス業
事業内容プロ野球興行事業など
代表者オーナー 田代和
代表取締役社長 小林哲也
主要株主近畿日本鉄道 100%
関係する人物佐伯勇(球団創設者)
特記事項:2005年3月31日解散、同年6月20日清算結了。
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大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、英語: Osaka Kintetsu Buffaloes)は、かつて存在した日本のプロ野球球団である。1949年から2004年まで活動し、1950年から解散までパシフィック・リーグに加盟していた。現在のオリックス・バファローズの前身球団の一つである。 フランチャイズ制度が導入された1952年から大阪府を保護地域とし、球団消滅時点で一軍は大阪市西区にある大阪ドーム[注 1]、二軍(ウエスタン・リーグ所属)は藤井寺市にあった藤井寺球場を本拠地としていた。 球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。ただし、三原脩の監督時代のサインなど、球団及び近鉄グループ関係者が誤用した例がある。 1999年3月31日までの球団名は「近鉄バファローズ」で、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)だった。 2004年11月30日に球団と近鉄グループの経営難からオリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、運営会社も2005年3月31日に解散した。職員の大半はオリックス野球クラブ、一部は新規に創設された楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトにより、オリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と同時に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。 オリックスの球団史において大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれていない。球団史が引き継がれずに終焉する形でのチーム消滅は1958年の大映ユニオンズ[注 2]以来となった。 合併までの経緯・詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照。 1944年6月から1947年5月まで南海鉄道と関西急行鉄道の戦時統合によって設立された近畿日本鉄道が運営していた近畿日本軍→近畿グレートリング[注 3]との球団の系譜としてのつながりはなく、これは現在の福岡ソフトバンクホークスの系譜である。 球団が消滅した2004年時点で現存していた12球団の中で「55年の球団史上1度も日本シリーズに4回出場した上で日本一になれなかった唯一の球団」となった[注 4]。セ・リーグの内、阪神タイガース、中日ドラゴンズ、大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ、合併で1953年にチーム消滅した松竹ロビンスとは日本シリーズで対戦したことはない[注 5]。 設立当初より低迷が続き、万年Bクラス、最下位の近鉄は「地下鉄球団」[1]とも揶揄(やゆ)された。
概要
球団の歴史
近鉄パールス時代
1949年
近畿日本鉄道をスポンサーとする近鉄パールス(設立時は近鉄本社、後にグループ会社の近鉄野球株式会社(初代、のちの近鉄興業株式会社[2])が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇の鶴の一声で結成。「パール(真珠)」は賞金5万円の公募によって決められ、近鉄沿線の伊勢志摩地方で真珠養殖が盛んなこともあって命名された[3]。近鉄にとっては、南海鉄道合併当時の1944年 - 1947年(近畿日本軍 → グレートリング、現:福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である[4]。近鉄は大阪電気軌道(大軌)時代よりラグビー部(現:花園近鉄ライナーズ)を有していたが、後の佐伯の述懐によれば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を動かしたという。