近衛秀麿
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この問題に関しては、後に関東軍の情報担当にもなった策士の原が金銭を罠にして山田を釣ったという説があるが、山田が儲けの半分を独占し、残り半分を楽員全員で山分けすることに不満の楽員を秀麿と原が自派に引き入れて分裂に至らしめた、という説もあり真実は不明である。

秀麿支持派は44名に達し、この集団を以って「新交響楽団」と名乗り、秀麿が常任指揮者となり、放送が開始されたばかりのJOAKと契約することになった。その後、新響は日本交響楽団を経て、1951年NHK交響楽団(N響)となった。マーラーの交響曲第4番の世界初録音の様子(日本パーロフォンスタジオ、1930年3月)。指揮:近衛秀麿、演奏:新交響楽団。写真左に久邇宮朝融王および朝融王妃知子女王が着席している。

1927年2月20日に、新響は初めての定期演奏会を秀麿の指揮で開いた。以後約10年もの間近衞は新響とともに、日本に交響楽を根付かせる運動に奔走すこととなる。演奏会ではベートーヴェンモーツァルトなどの古典派音楽に加え、マーラーや当時における現代音楽などをレパートリーとして演奏している。また、1930年にはマーラーの交響曲第4番を世界初録音している。

1930年秋からヨーロッパに単身演奏旅行に出かけた秀麿はフルトヴェングラーやブルーノ・ワルター、クライバーらが指揮するベルリン・フィルやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの演奏を聴き、日本と海外のレベルがあまり縮まっていないことを痛感したという。折りしも、国内でも「新響はさほどレベルアップしていない」という評価が多く占めたこともあり、帰国後、秀麿は大鉈を奮って人員刷新に取り組むことになった。

楽員サイドと「革新実行委員会」を作り、どの楽員をリストラすべきか検討したが難航した。そこで、手っ取り早く塵を払うべく、原の提案で、待遇改善をしつこく訴えたり原の行動に不満をぶちまけた楽員をリストラすることになり、結果17名(23名説もある)の楽員をリストラした。解雇された楽員は新響や原を一度は告訴するも、やがて音楽評論家堀内敬三が面倒をみることになり、堀内が愛用していたタイプライターの名前にちなんで「コロナ・オーケストラ」と名乗った。後年、「東京放送管弦楽団」と改称し、幾度のメンバー変遷などを経て現在もNHKで活動をしている。この一連のリストラ騒動を「コロナ事件」という。この一件の後、新響は新楽員を入れたが、その際秀麿の提案で4名の女性楽員を入れた。これが、学校付属のものなどを除けば、日本のオーケストラに女性が入った嚆矢である。

「コロナ事件」を経て、再び新響の活動も順調になったはずであったが、1935年7月13日、楽員一同が原の不明朗経理を糾弾し、同時に新響を法律上の組合組織に改組する旨宣言した。楽員側は宣言文にさりげなく秀麿の名前を入れたが、秀麿自身は寝耳に水の話であった。JOAKは秀麿と原の味方をし、評論家は二分、音楽ファンは楽員側を応援した。評論家は挙って音楽雑誌で論陣を張り、この問題を取り上げた。

秀麿は7月18日、新響を解消して新オーケストラを結成する宣言を出したものの、今回は楽員達がまったくついてこず、結局秀麿は新響を退団。原も追放された。一方で、新響もJOAKとの契約を一時解消され、8月13日には日比谷公園野外音楽堂で無指揮者演奏会を開き、8月末には契約も復活したが、秀麿の退陣で常任指揮者が不在となり、定期演奏会に出演する指揮者が度々変わった[3]。この状態は1936年秋のヨーゼフ・ローゼンシュトック着任まで続くこととなる。
海外での活動

フリーの立場となった秀麿は中央交響楽団を短期間指揮したのち、1936年に新響と一応の和解を果たす。一時的に上海交響楽団などで活動した後、同年、首相広田弘毅によって音楽使節に任命され、再び海外に向かう。この件はレオポルド・ストコフスキーから秀麿に客演の要請があり、その流れで実現した話である。まずアメリカに向かい、ストコフスキーのほかユージン・オーマンディアルトゥーロ・トスカニーニと面会、1936年11月にはヨーロッパへ移りBBC交響楽団ドレスデンリガの歌劇場などに客演する。

1937年に入るとアメリカを経て一時帰国。日本とアメリカの幾度かの往復の後ヨーロッパに移動した。1938年に一時帰国し改めて親善大使に任ぜられたのち、再びアメリカ・ヨーロッパに向かった。NBC交響楽団の指揮者陣に加わったが、アメリカの対日感情悪化で話が流れ、即座にヨーロッパに移動。ヨーロッパでは有名無名問わず各国でおびただしい数のオーケストラを指揮した。第二次世界大戦勃発後も親交のあったユダヤ人を匿うなどをした[4]ためドイツでの活動が1943年以降制限されたものの、華やかな演奏活動を繰り広げた。

1938年?1939年ベルリンミュンヘンデンマークスウェーデンなど

1940年:ミュンヘン、ベルリン、ウィーンなど

1941年ヘルシンキ(この際、シベリウスと親交を結んだ。また大統領から「フィンランド白薔薇十字勲章大十字章」を授かった)。ハノーファーなど

1942年ブレスラウハンブルクなど

1943年ベオグラードソフィア(ブルガリア国王ボリス3世の前で御前演奏を行い、勲章を授かった)、ミュンスタークラクフルヴフワルシャワブリュッセルなど

1944年パリベルギー

1945年4月、ドイツの敗戦によりライプツィヒでアメリカ軍に抑留され、アメリカ経由で12月にようやく帰国した。その直後、秀麿の兄で元首相の文麿が自殺している。帰国前の1945年11月11日、戦時中に外交官が抑留されていたベッドフォード・スプリング・ホテルで、日本人の解放を祝う演奏会が開かれたが、その演奏者リストに名を連ねている[5]

戦後?晩年1956年

帰国した秀麿は、40代半ばにしてすでに日本の指揮者界の長老格となっていた。1946年からは、上田仁とともに東宝の肝いりで創設された東宝交響楽団(東響)の常任指揮者となる。東響では、上田が現代ものを、秀麿が古典派ロマン派の作品を指揮するよう役割が決められていた。

1948年より日本芸術院会員となった秀麿は、1949年、知り合いの楽員を集め、学校での音楽教室を主眼とする「エオリアン・クラブ」を結成した。1950年、東宝が東宝争議を経て東響を縁切りするにあたり、秀麿は東響を半ば追放同然のように去った。

エオリアン・クラブでの活動に本腰を置くようになった秀麿は、1952年、このクラブを発展させ、第一生命の後援を受け、近衞管弦楽団(近響)に改組する[6]アルバイト奏者として近響に短期間在籍したことのある岩城宏之によれば、秀麿邸はオーケストラがすっぽり入れるほど大きかったという。第一生命や、当時第一生命が主要株主であったラジオ東京の支援も大きく効いたが、第一生命が当局の指示により、のちに近響のスポンサーを降りた。

その後、秀麿は、当時日本フィルハーモニー交響楽団(日本フィル)の専属オーケストラ化を計画していた文化放送に対し、近響を日本フィルの中核にするよう申し入れるが、文化放送社長水野成夫の横槍もあり、結局秀麿だけが除け者にされる結果に終わった。晩年には日本フィルとの関係も好転し、1969年から70年の音源と映像[7]には現在でも接することが出来る。

次に秀麿は、近響の演奏会をCBC(中部日本放送)ともども支援してきたABC(朝日放送)に契約を持ちかけ、近響は1956年、ABC交響楽団(ABC響)に改組する。しかしながらABC響の活動は順調とは言えず、待遇面で不満を持ったヴォルフガング・シュタフォンハーゲンら主だった楽員が別のオーケストラ「インペリアル・フィルハーモニー」を結成したりもし、ABC響崩壊の危機の原因にもなった。

そういった中、1960年秋にはABC響のヨーロッパ演奏旅行が挙行され、秀麿も指揮者として渡欧することとなった。


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