近衛文麿
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太平洋戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣した。大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され服毒自殺した。

指揮者作曲家で貴族院議員を務めた近衞秀麿は異母弟、大山柏は妹婿、徳川家正は従兄にあたる。また、第45・46代熊本県知事や第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕と、日本赤十字社社長や国際赤十字赤新月社連盟会長を務めた近衞忠W島津家第32代当主・島津修久は外孫に当たる。
生涯
生い立ち若かりしころ

1891年明治24年)10月12日公爵近衛篤麿と旧加賀藩主侯爵前田慶寧の五女・衍子の間の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれた。命名は長命であった曾祖父忠煕に依り、読みは「あやまろ」では語呂が悪いため「ふみまろ」とされた。皇別摂家の家系で後陽成天皇の男系子孫にあたる。母の衍子は加賀前田家の出身で、文麿が幼い頃に病没、父の篤麿は衍子の異母妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった。貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由とされる。文麿は成人するまで貞を実母と思い、事実を知った衝撃は大きく、以後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」[2]。このことが文麿の人格形成に与えた影響は大きかった。1904年(明治37年)に父の篤麿は41歳で死去、文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。文麿の、どことなく陰がある反抗的な気質はこの頃に形成された、と後に本人が述懐している。

泰明尋常小学校を経て学習院中等科で学んだ。一学年上には後に「宮中革新派」となる木戸幸一原田熊雄などがいる。

1909年(明治42年)、第一高等学校入学。当時華族の子弟は学習院高等科への進学が通例だったが、一高校長であった新渡戸稲造に感化され同校を選択した。同級生には菊池寛や、後に近衛内閣のブレーンとなる後藤隆之助山本有三などがいる。1912年に卒業[3]

続いて哲学者を志し東京帝国大学文科大学哲学科に進んだが飽き足らず、マルクス経済学の造詣が深い経済学者共産主義者であった河上肇被差別部落出身の社会学者・米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学した[注釈 1]

河上との交流は1年間に及び、彼の自宅を頻繁に訪ね、社会主義思想の要点を学び、深く共鳴している。これがのちに政権担当時の配給制などに結びつく。ジョン・スパルゴー(英語版)の『カール・マルクスの生涯』とトリノ大学教授ロリア(Achille Loria)の『コンテンポラリー・ソーシャル・プロブレムズ』[注釈 2]の2著をもらっている[4]

京都では木戸幸一、原田熊雄、織田信恒赤松小寅などと友人になった。大卒者の初任給が50円程度であった当時に毎月150円の仕送りを受け取っていた。下鴨で一年間を過ごしたのち、毛利高範の次女・千代子と結婚し宗忠神社近くの呉服店別荘を借り移り住んだ。首相を辞職した西園寺公望1913年大正2年)に京都に移ると、清風荘を訪問し西園寺に面会した。近衛家と西園寺家は共に堂上家であるが縁が薄く、2人が顔を合わせたのはこれが初めてであった。60歳を越す元老の西園寺であったが、同じ堂上家でも格上の摂家の当主である学生の近衞を「閣下」と持ち上げ、近衞は馬鹿にされているのかと気を悪くしている[5]

在学中の1914年(大正3年)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次『新思潮』大正三年五月号、六月号に発表したが、『新思潮』五月号は発禁処分となった。近衞の翻訳文が原因であるとするのが通説となっているが、異論も存在する[6]
政界へ進出1936年、貴族院本会議にて勅語を朗読

1916年大正5年)10月12日、満25歳に達したことにより公爵として世襲である貴族院議員になる[7]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに英米本位の平和主義を排すの原文があります。

1918年(大正7年)に、雑誌『日本及日本人』で論文「英米本位の平和主義を排す」を発表した。ウィキソースに戦後欧米見聞録の原文があります。

1919年(大正8年)のパリ講和会議では全権・西園寺公望に随行するも、自らも提案に加わった人種的差別撤廃提案が否決されたことで白人への強い恨みを抱くようになったとされる[8]

1926年(大正15年)には華族や有位者の資格審査をする宮内省宗秩寮審議会の審議員も兼ねた[9]

1927年昭和2年)には旧態依然とした所属会派の研究会から離脱して木戸幸一、徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的な地盤を作り、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていった。

また五摂家筆頭という家柄に加えて、一高から二つの帝大に入った高学歴や、180cmを超す当時では高い身の丈で貴公子然とした端正な風貌と、対英米協調外交に反対する既成政治打破的な主張で、大衆的な人気も獲得し、早くから将来の首相候補に擬せられた。1933年(昭和8年)貴族院議長に就任。

1933年(昭和8年)には近衞を中心とした政策研究団体として後藤隆之助らにより昭和研究会が創設された。この研究会には暉峻義等三木清平貞蔵笠信太郎東畑精一矢部貞治、また企画院事件で逮捕される稲葉秀三勝間田清一正木千冬和田耕作らが参加している。後にゾルゲ事件において絞首刑に処せられる尾崎秀実もメンバーの一人であった[10]

1934年(昭和9年)5月に横浜を発ってアメリカを訪問し、大統領フランクリン・ルーズベルトおよび国務長官コーデル・ハルと会見した。


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