凡例近衛 忠熈
近衛忠熈
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕文化5年7月14日(1808年9月4日)
死没明治31年(1898年)3月18日(89歳没)
別名号:翠山
官位従一位、関白、左大臣、贈正一位
主君光格天皇→仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇
氏族近衛家
父母父:近衛基前、母:徳川静子
兄弟忠煕、津軽信順正室
養兄弟:福君、増子
妻正室:郁姫(島津斉興の養女)
子忠房、常磐井堯熙、水谷川忠起、総子、津軽尹子
養子:篤麿、藤原敬子、広幡忠礼室、
備子、文秀、寧子
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近衛 忠熈(このえ ただひろ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:近󠄁衞 忠熈)は、江戸時代後期の公卿。官位は従一位・左大臣、関白。贈正一位。勲一等。翠山と号す。
左大臣を務めた近衛基前の長男として生まれ、近衛家の第27代当主となった。母は徳川宗睦の養女(松平義当の娘)・静子。左大臣や関白などを歴任し、公武合体派として活動した。 左大臣の近衛基前の長男として生まれた。安政3年(1856年)には島津氏の篤姫(天璋院)を養女としている。 安政4年(1857年)、左大臣となるが将軍継嗣問題で一橋派に属し戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し落飾謹慎する。 文久2年(1862年)に復帰して九条尚忠に代わり関白内覧を務めるが、翌年関白職を辞し、鷹司輔熙が後任となった。東京奠都後、ほとんどの公家が東京に移住した後も京都に居住、彼は1873年(明治6年)6月12日に長男忠房に家督を相続させるも[1]翌月に死去、孫の篤麿を引き取り養育に専念した。明治天皇の度重なる要請に折れ東京に移ったのは、子の忠房が没して5年後の明治11年(1878年)のことである[2]。明治31年(1898年)3月18日、死去。 死後6年経った明治37年(1904年)に正一位を追叙された。江戸幕府の征夷大将軍は代々が死後正一位を追贈されているが、最後の将軍徳川慶喜は従一位に留め置かれており、また忠熙の後に関白・摂政を務めた各人も何れも従一位止まりであり、2015年の時点では、正一位に昇った人物の中では最も後年まで存命であった人物である。なお、存命中に正一位に叙された最後の人物は三条実美(最後の太政大臣)、最後に没後追叙として正一位に叙せられたのは織田信長(死後300年以上経過した後)である。 近衞家は、藤原忠通の子である近衞基実を始祖とし、五摂家の一つであった。詳細は「近衛家」を参照
経歴
人物
忠熙が生存していた頃、近衛家では3月の桃の節句に雛壇を設けず、緋毛氈を畳に敷き、その上に雛人形を並べていた。その理由は、内裏雛は一般に天子様を象った物とされるが、天子様は神であり、そのお姿を写すのは不敬であるので天子様であろうはずはない。あの人形は公家を象った物に相違なく、ならば公家のトップである近衛家の人間がそんな物を檀上に飾って下から仰ぎ見なければならない道理はないということであった。ただし忠熙が死んだあとは普通に雛壇の上に飾るようになった[3]。
家族・親族
父:近衛基前
母:徳川静子 - 徳川宗睦の養女、松平義当の娘
正室:島津興子 - 郁姫、薩摩藩主・島津斉興の養女、前藩主・島津斉宣の娘
四男:近衛忠房 - 神宮祭主
七男:常磐井堯熙 - 真宗高田派本山専修寺住職[4]
八男:水谷川忠起 - 一乗院門跡、春日大社宮司[5]
生母不詳の子女
女子:近衛総子 - 一条実良正室
六女:信君 - 津軽尹子、津軽承昭継室
養子
男子:近衛篤麿 - 近衛忠房の子
女子:藤原敬子 - 島津斉彬養女、島津忠剛の娘、徳川家定正室・天璋院篤姫
女子:広幡忠礼室 - 達如の娘
女子:近衛備子 - 綱姫、鷹司政熙二十四女、伊達慶邦正室
女子:文孝 - 廣厳心院秀山尼大禅師、圓照寺第9代門跡
女子:寧子 - 寧姫、島津斉彬の五女、島津忠義後室
猶子
男子:大谷光勝 - 達如の次男、東本願寺法主
男子:広幡忠礼 - 広幡基豊の子
系譜
近衞家
皇室との関係
後陽成天皇 後水尾天皇 明正天皇
後光明天皇
後西天皇
霊元天皇 東山天皇 中御門天皇 桜町天皇 桃園天皇 後桃園天皇
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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