近衛家
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同時に政治的な浮沈も激しくなり安政の大獄で失脚し[6]井伊直弼が討たれると復権したが公武合体に奔走したため、幕末も後期の頃に幕府崩壊と共に再び失脚し、まもなく赦免されたがすでに60過ぎだった自身の政治生命は終わったことを自覚してそのまま隠居した[14]
明治以降

維新後、明治天皇が東京に移ると京都の公家たちも続々と東京へ移っていったが、忠熙はしばらく京都にとどまり、代わりに忠熙の嫡男近衛忠房が政府の要職に就任して東京に移住し、忠房は1873年(明治6年)6月12日に父の隠居によって家督を相続するも[15]も翌月に病を得て死去。忠房の政治的栄進に望みをかけていた忠熙の失望は大きかった[16]。忠房の嫡男近衛篤麿が家督を相続。彼は父が東京へ移った後も京都にあって忠熙に養育されていたが、元服後まもなく宮内省で侍従職として勤務することになり東京へ移住。この際に忠熙も東京へ移住することになった[17]

1884年(明治17年)の華族令制定に伴い、篤麿は公爵に叙せられた[13]。1890年(明治23年)に貴族院が開設された後には篤麿は公爵として無選挙で貴族院議員に就任して院内会派を結成し、貴族院議長東亜同文会会長として活発に政治活動を行った[9]。生まれたばかりの議会政治を育てるために尽力した[18]。また篤麿が指揮する東亜同文会には全国のアジア問題に関心のある識者が続々と集まり、日本の対アジア政策の拠点となっていた[19]。また明治天皇は内命をもって侍従長を介し篤麿に意見があれば何事も随意に奏聞するよう命じていた。これは異例のことだったが、皇室と近衛家の特別な関係及び篤麿の卓越した見識を評価されたことによるものだった[19]。篤麿は国粋主義者として知られ[20]、日露戦争前夜の頃、ロシアとの緊張が高まった際には国内で最も強硬にロシアとの開戦を主張し、対ロシア融和派として開戦回避に動く伊藤博文を「恐露病」と批判して対立した[21]

政界の巨頭だった篤麿に接近して知遇を得、何らかの眷顧を得ようという輩は多く、近衛家の前には謁見の栄を得ようと順番待ちしている者が後を絶たなかった。息子の近衛文麿は会津や仙台など東北を旅行した際、まだ子供だった自分に叩頭し、三拝九拝する大人たちの姿を見て滑稽の感を催すとともに父の権力の巨大さを子供心に実感したが、父が死ぬやぱったりと誰も擦り寄ってこなくなり、近衛家は火が消えたように寂しくなったことを記憶しており、こうした体験が彼の人間嫌いな性格を助長したという[22]

篤麿の死後に公爵位を継いだ文麿は、1916年から公爵議員として貴族院議員になり、華族や有位者の資格審査をする宮内省宗秩寮の審議員を務め、その後、貴族院議長や東亜同文書院院長などを経て、昭和前期に3度にわたって内閣総理大臣(第34代、第38代、第39代)を務め[9]、1938年には国家総動員法を成立させ、同法規により地方の民間電力会社を買収し、強制的に9大電力会社を組織した。その弟秀麿も指揮者として著名である。秀麿は分家の華族として子爵位を与えられている[23]

五摂家の筆頭だった近衛家は華族の中でも頂点に立つ別格の存在であり、近衛文麿は天皇の前で足を組んで話をすることが許されている唯一の存在だったといわれる[24]

第二次世界大戦直後の1945年(昭和20年)11月に近衛文麿は敗戦に至った責任を取るとして公爵位辞爵を申し出、市井の平人として余生を過ごすことを願うと記したが[25]GHQにより戦犯指定されたため、翌12月に服毒自殺した[26]

文麿の長男文隆は終戦時に重砲兵第三連隊に所属していたが、停戦命令に従い武装解除してソ連軍に投降した。文隆が文麿の長男であることを知ったソ連当局は文隆をスパイにして日本政界に送り込む計画を企てたが、文隆が拒んだため禁固25年の判決を受けてシベリア抑留を受け、1956年10月29日に凍土の中で高熱を出して死去した[27]

現当主の近衛忠W日本赤十字社社長(現名誉社長)、国際赤十字赤新月社連盟会長を歴任した。忠Wは肥後細川家出身で細川護貞と文麿の次女・温子の次男であり、文隆の夫人・正子の養子となって近衛家を継いだ。なお、元内閣総理大臣(第79代)、元熊本県知事(第45・46代)の細川護熙は忠Wの実兄。また、忠Wの夫人は三笠宮崇仁親王の長女・ィ子。その長男で次期当主の忠大NHK職員などを経て現在は映像作家や宮中歌会始で講師などを務めている。
歴代当主
近衛宗家

代数肖像名前
(生没年)続柄位階備考
1
近衛基実


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