書道は、はじめ加茂流を学び、更に近衛家や他に伝わる空海・小野道風らの書に学び独自の境地を切り開いた。絵画は水墨画を好んで描き佳作と評される。茶道は慈胤法親王を師とした。有職故実にも堪能で、礼典儀礼を研究し、『唐六典』の校勘を長年継続して、致仕後の享保9年(1724年)に20年の歳月をかけて完成させ、家熙の没後に刊行された。また、公家茶道に通じた茶人であり、『槐記』に見られるように、自ら茶事をおこない、侘び茶人との交流でも知られる。1713年(正徳3年)8月から自邸で行った茶事については陽明文庫蔵の『御茶之湯記』に詳細に記録されている[4]。
なお、家熙の人となりや博学多才ぶり、高い見識のほどについては、侍医(専門は現代で言う小児科)で、茶人であった山科道安(やましなどうあん)がその言行を日録風に記した『槐記』11巻により、如実に知ることができる。
『槐記』によれば、家熙は自然科学にも精通し、享保16年(1731年)、雷鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している[5]。
元文元年(1736年)10月3日薨去。享年70。京都市北区の京都大徳寺に葬られる。 近衛家は、藤原忠通の子である近衛基実を始祖とし、五摂家の一つであった。詳細は「近衛家」を参照
家族・親族
妻:女一宮憲子 - 霊元天皇皇女
長男:近衛家久(1687-1737)
長女:徳君(1686-1721) - 徳大寺公全室
妻:町尻量子(おつま) - 町尻兼量の娘
二男:鷹司房熙(1710-1730) - 鷹司兼熙養子
女子:尚子(新中和門院)(1702-1720) - 中御門天皇女御
女子:安己君(1704-1725) - 徳川継友室
生母不明
男子:鷹司尚輔(1726-1733) - 兄の鷹司房熙養子
男子:宝演(1714-1733) - 三宝院門跡
男子:寛深(信性)(1723-1787) - 大覚寺門跡
女子:政姫(1699-1704) - 徳川家宣養女
女子:房子 - 本願寺光乗室
系譜
近衛家
皇室との関係
後陽成天皇 後水尾天皇 明正天皇
後光明天皇
後西天皇
霊元天皇 東山天皇 中御門天皇 桜町天皇 桃園天皇 後桃園天皇