とかく親幕派・公武合体を進めた公卿として知られるが、一方で家宣の死後に新井白石の斡旋で行われた霊元上皇皇女の八十宮(吉子内親王)の将軍徳川家継への降嫁(これは一転して幕府との関係改善に乗り出した霊元上皇と近衛熈子(出家して天英院)の排除を策する家継の生母の月光院との思惑の一致による側面もあった[要出典])には朝廷の尊厳を損なうとして強く反対するなど朝臣として幕府とは距離をとることも忘れなかった(もっとも、天英院も皇室から正室を迎える構想自体には賛意を示していたため、基熈も表向きには反対を表明できなかったという[10])。また、武家官位の濫発によって綱吉生母の桂昌院や側近の柳沢吉保が分を超えた高位に叙せられた事に関しても強く憤慨している。
更に、寛文5年(1665年)から死去まで書き続けていた日記『基熈公記』では、赤穂事件についての記述で吉良義央が刃傷され即日、浅野長矩が切腹となったことについて、感想を基熈は「珍事々々」と驚いており、また事件を聞いた東山天皇の様子について「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と記している[11]。東山天皇は長矩の処分に御喜悦あそばされたのではなく、幕府の様々な朝廷政治工作にかかわっていたであろう高家肝煎の義央を内心では嫌っていたとも考えられる。ただ、のちに近衛や東山天皇が浅野家断絶に同情したり、赤穂義士の快挙に喝采した様子(日記への記載)は一切見られない。そのため、野口武彦は「武家同士の紛争もしくは幕府の不祥事を面白がったのだ」とする仮説を立てている[12]。
享保7年(1722年)に出家し悠山という法名を称した。同年9月に薨去。享年75。京都大徳寺に葬られる。 後水尾天皇の薫陶を受け、和歌をはじめとする諸学に影響を受けた。歌道・書道・絵画に優れた才能を発揮した。また、天和3年(1683年)後西天皇より、古今伝授を受け、享保3年(1718年)、孫の家久に授けた。有職故実についても詳しく、同時期、有識家として知られた平松時方 近衛家は、藤原忠通の子である近衛基実を始祖とし、五摂家の一つであった。詳細は「近衛家」を参照
文学への功績
家族・親族
正室:品宮(1642-1702) - 後水尾天皇皇女
長女:熈子(天英院)(1666-1741) - 徳川家宣御台所
長男:家熈(1667-1736)
二男:大炊御門信名(1669-1684)
生母未詳
男子:寛守(1713-1730) - 兄の近衞家熈養子、大覚寺門跡
女子:脩子 - 直仁親王御息所
系譜
近衛家
皇室との関係
後陽成天皇 後水尾天皇 明正天皇
後光明天皇
後西天皇
霊元天皇 東山天皇 中御門天皇 桜町天皇 桃園天皇 後桃園天皇