近衛上奏文
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注釈^ 近衛文麿の最側近の一人である矢部貞治は、昭和16年5月6日に、米内内閣を倒した陸軍中堅層を「大政翼賛会を親軍的一国一党運動として支持しソ連邦との抱合を企図する革新右翼」と呼んでいた[10]
^ 国内革新案とは、日本国権社会党による一国一党政治、少数内閣制、銀行、重要産業、商業の国公営化の実現を目指す「政治行政機構改造案」である。石原莞爾は昭和6年5月に、「戦争は必ず景気を好転せしむべく爾後戦争長期に亘り経済上の困難甚だしきに至らんとする時は、戒厳令下に於いて各種の改革を行うべく平時に於ける所謂内部改造に比し遙かに自然的に之を実行するを得べし。我が国情は国内の改造を第一とするよりも寧ろ国家を駆って対外発展に突進せしめ途中状況により国内の改造を断行するを適当とす」と述べ、参謀本部戦争指導課長として昭和11年秋頃に宮崎正義に「産業五カ年計画」と「政治行政機構改造案」を立案させたが、後者の案は検討段階で中止になった[11]
^ 海軍には支那事変の勃発以前から陸軍統制派アカ論が存在した。海軍大将の山本英輔は、斉藤実内府に送るの書(昭和10年12月29日)の中で、政府が一向に荒木、真崎の陸軍皇道派の要望に応えない為に、革新将校が「意気地がなく手緩い、最早上官頼むに足らず、統制派の方がマシだ」といい、我が国体に鑑み皇軍の本質と名誉を傷つけることなきを立て前とし、大元帥陛下の御命令にあらざれば動かないと主張する皇道派を見限り、統制派の勢力が拡大しつつあることを指摘し、「始めは将官級の力を藉りて其目的を達せんと試みしも容易に解決されず、終に最後の手段に訴えて迄もと考える方の系統がファッショ気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動となり、之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化され居るも、其終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍のパンフレットは其の真意を露わすものなり。林前陸相、永田軍務局長等は之を知りてなせしか知らずして乗ぜられて居りしか知らざれども、其最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、凡てを国家的に統制せんとするものにて、ソ連邦の如き結果となるものなり」と警告を発していた[12]
^ 昭和19年6月、荻外荘に招かれた警視庁特高第一課長の秦重徳は、我が国の共産主義運動について、「今日のわが国には共産党はなく、従って、共産主義運動は統一性を欠いている。けれども、共産主義者は職場と時とに即応して運動を行っており、戦争による国民生活水準の低下は、これら運動の温床になっている。その運動は正面から共産主義を標榜せず、敗戦の場合にそなえて共産主義者を養成するという目的でなされているものが多い。要するに、現在の情勢は『枯草を積みたる有様』であるから、これにマッチで火をつければ、直ちに燃え上がる。警視庁では国体を否認するものを左翼、そうでないものを右翼として扱っているものの、この右翼の中には実は左翼の多いことは、明かである。最近の産業奉還論のごときは、その良い例である。またいわゆる転向者の大部分は真に転向しているのではない」と近衛に説明した[16]
^ 戦後日本において地政学の再評価を行った外交史研究家の曽村保信は、戦争と共産主義?昭和政治秘録(三田村武夫著/民主制度普及会、1950年)を「大東亜共栄圏とマルクス主義との関わりを歴史的に立証した本」と評価し、これに依拠して、「戦前および戦中の日本では地政学は日本に対英米開戦を迫る国際共産主義の一手段として、言い換えればすなわちスターリンの対外政策実現のために知らず知らずのうちに利用されたというあまり香ばしくない過去の閲歴を持っている」と述べ、「日本の大陸政策に最も大きな影響を与えた外来の思想は実はマルクス主義であって、本来の意味の地政学ではなかったように思われる」と結論づけた[19]
^ 岸は東京裁判でA級戦犯とされた自分よりもスターリンの罪の方が大きかったのだとし、「このショッキングな本が、もっともっと多くの人々に読まれることを心から望む次第である。」と三田村のこの著書に賛辞を寄せた[20]

出典^ 岡 (1966)、上巻 三一頁。
^ 藤田 (1987)、43頁。
^ 藤田 (1987)、73頁。
^ 藤田尚徳『侍従長の回想』中央公論社中公文庫〉、1987年、55-67頁。 
^ 当時、中国の延安で活動していた野坂参三(変名・岡野進)を指す。
^ 木戸日記研究会代表岡義武 編『木戸幸一関係文書』東京大学出版会、1966年、495-498頁。 
^ 藤田尚徳『侍従長の回想』中央公論社〈中公文庫〉、1987年、64-65頁。 
^ 木戸日記研究会代表岡義武 編『木戸幸一関係文書』東京大学出版会、1966年、497-498頁。 
^ 木戸幸一関係文書591?592頁。
^ 現代史資料国家総動員2、484?488頁
^ 石原莞爾資料国防論策編76?78頁「満蒙問題私見」、秦郁彦【軍ファシズム運動史】246?247頁、伊藤隆【近衛新体制】59?60頁
^ 木戸幸一関係文書257?258頁)。
^ 終戦工作の記録上67?72頁「小林躋造回顧録」
^ 第76回帝国議会衆議院国防保安法案委員会議録第3回昭和16年2月3日。
^ 大東亜戦争とスターリンの謀略?戦争と共産主義、28頁。
^ 岡義武【近衛文麿】202頁
^ 大東亜戦争とスターリンの謀略?戦争と共産主義、30頁。
^ 大東亜戦争とスターリンの謀略?戦争と共産主義参照。
^ 曽村保信【地政学入門外交戦略の政治学】130?134頁
^ 大東亜戦争とスターリンの謀略?戦争と共産主義、311?322頁
^ 終戦へ共産国家構想 陸軍中枢「天皇制両立できる」 ⇒1/4[リンク切れ] ⇒2/4[リンク切れ] ⇒3/4[リンク切れ] ⇒4/4[リンク切れ] 産経新聞2013年8月12日
^ 庄司 (1995) 「それでは何故、上奏文のなかで過剰とも思える革命への恐怖と、それによってもたらせる陰謀説が展開されたのだろうか。元来近衛がこのような傾向を持ち、ゾルゲ事件や軍部憎悪により増幅されたことは否定し得ないが、異常とも言える内容が問題である。むしろ近衛の本音というより、殖田らの影響とともに、当時近衛らのグループが模索していた、さらには二・二六事件以降の宿願である皇道派の復権・組閣のために、皇道派に冷淡な天皇を説得しようとする政略的な意味があったと推測される。そのためには、誇張された表現が必要であった」
^ 藤田 (1987)、58頁。
^ a b 「『本土決戦』『一億玉砕』を叫んだ敗戦革命論者たち]」(平間洋一「中国共産党 野望と謀略の90年」『別冊正論』平成23年6月号、pp156-165)
^ 塩崎弘明「「統制派」の「経済政策思想」」、『近代日本研究-1 1979 昭和期の軍部』所収
^ 鶴見俊輔「翼賛運動の設計者」、思想の科学研究会編『共同研究 転向3』所収、東洋文庫824、p.191
^ 『評伝吉田茂』、第二十章和平工作、六
^ a b 秦郁彦『陰謀史観』48-54ページ

参考文献

終戦工作の記録(
江藤淳監修、波多野澄雄編、講談社文庫、1986年)

敗戦の記録(参謀本部編、原書房、1967年)

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌(軍事史学会編、錦正社、1998年)

尾崎秀実著作集(尾崎秀実著/勁草書房、1979年)

大東亜戦争とスターリンの謀略?戦争と共産主義(三田村武夫著、自由選書、1987年、戦争と共産主義?昭和政治秘録の復刻版)

第二次世界大戦と日独伊三国同盟―海軍とコミンテルンの視点から(平間洋一著、錦正社、2007年)

近衛日記(共同通信社開発局、1968年) ASIN: B000JA68IO

道越治・松橋雅平・松橋暉男『近衛文麿「六月終戦」のシナリオ』毎日ワンズ、2006年 ISBN: 4901622153

木戸幸一『木戸幸一日記』上巻、木戸日記研究会校訂、東京大学出版会、1966年。ISBN 9784130300117

岡義武『解題』1966年、一頁?四十三頁頁。 


『木戸幸一関係文書』、木戸日記研究会編、東京大学出版会、1966年。ISBN 9784130300131。「時局ニ関スル重臣奉答録」 四九五頁?四九八頁近衛上奏文を収録。

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