近畿日本ツーリスト
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また、親会社の近鉄は国際化を見越して1948年に社内に観光部を設け[6]、その後ノースウエスト航空の代理店となり IATAの公認も得て、欧米・アジアの航空会社の代理店にもなった。更に税関貨物取扱人(現在の通関業に相当)免許も取得した[7]。その観光部は1950年3月に国際運輸部と改称する[8]。そこから更に近鉄の国際運輸部が近畿交通社に事業譲渡され株式会社近畿交通社は近畿日本航空観光株式会社に改称する。

一方の日本ツーリスト株式会社は、銀行員だった経験をもとに、馬場勇が1948年(昭和23年)9月に創業し1950年株式会社として設立した[9]。日本ツーリストは景気に左右されない修学旅行団体の獲得を行い、当時の修学旅行の移動手段の粗悪さに着目し、日本国有鉄道・JNR(現・JR)に陳情し修学旅行専用列車(列車番号:臨3311)を初めて走らせ[10]、国鉄の団体旅客取扱指定業者になるなど、資金も信用もない独立系の弱さを創意工夫で旅行市場を切り開いていった。一般の団体旅行にも手を広げ、地方にも営業所を置き事業を拡大してきたが、資金繰りに窮し経営に行き詰る。

1955年(昭和30年)9月、近畿日本航空観光と日本ツーリストが合併し近畿日本ツーリストとなり大阪府に本社を置いた。合併は日本ツーリストが吸収合併された形であるが、日本ツーリストから続く営業姿勢が受け継がれ「野武士集団」としての社風を醸成していく[11]1950年代後半以降は日本が高度経済成長に入る時期で国民生活は安定し国内団体旅行が増え、団塊の世代が成長し修学旅行の需要が大きくなる時期でもあった。そこで積極的な営業で業績を伸ばし、1965年(昭和40年)に本社を東京都に移転した。しかし1960年代半ばから一般団体旅行の団体が細分化され1団体あたりの人数が減少していく傾向になった。このため個人旅行にも力を入れ個人客の好みに瞬時に応える態勢に向け他社に先駆けてリアルタイムシステムを導入し、1967年(昭和42年)には旅行業界初の宿泊予約システムを稼動する[11]。このシステムは1970年開催の日本万国博覧会関係の予約業務に貢献し[12] 業績を更に伸ばすことに繋がる。1972年(昭和47年)には個人客向けパッケージツアー商品である「メイト」(国内旅行)、「ホリデイ」(海外旅行)の販売を開始した。その一方で近畿交通社時代から続く航空部門の不振により、1960年(昭和35年)11月に全額出資で株式会社近鉄航空サービスを設立して、航空部門を分離する(後に黒字化し1965年8月に同社を吸収合併)。

1975年(昭和50年)には総合旅行会社としては初めて東証大証第二部に株式の上場を果たす(証券コード 9726、1977年に両方第一部に指定換え)。さらなる創意工夫を行い、1980年(昭和55年)から渋谷営業所で新聞や情報誌を使ったメディア販売を開始し更なる成長を遂げる。1980年代前半には会社全体の取扱高で日本旅行を抜き業界2位になる[11]1990年代にはメディア販売をもとにシニア向けに「旅の友」サークルを発足し、1995年平成7年)には会員組織型旅行事業とも言えるクラブツーリズムを開始し(2004年に営業譲渡[13])新たなビジネスモデルを確立した。さらに1999年(平成11年)には異業種と合同プロジェクト“WiLL”を発足する[14][15] など新たな取り組みも行った。情報化では1990年に全世界予約システム「テラノス」を稼動している[11]

2000年代に入るとバブル崩壊後の不況の長期化に加え新型肺炎SARSイラク戦争の影響でもあり厳しい経営環境が続いた。2001年(平成13年)に日本旅行との合併を発表するも[16]、翌年撤回[17]。プラットフォーム戦略に力を入れ他の大手私鉄グループと提携[18]イオングループ[19][20]スルガ銀行[21] などの異業種の企業[22] とも提携したほか、次世代店舗の開設や[23] 新たな形態の店舗開設[24] に取り組みブランドの浸透と取扱拡大を図った。また訪日外国人観光客向けの事業[25] や地域振興事業も拡大した。2007年(平成19年)からは企業ブランドとして「KNT!(ケイ・エヌ・ティ!)」を前面に出し、ロゴも「knt! 」に一新した[26]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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