その後、天智天皇が政権を握ると、天智天皇6年(667年)に大津京(大津市)への遷都が行われた。
天武天皇元年(672年)には天智天皇の後継者争いから壬申の乱が勃発した。この古代最大の内乱は畿内を舞台に行われ、これに勝利した大海人皇子(天武天皇)は飛鳥浄御原宮(明日香村)に遷都し、中央集権的な国家造りに取り組んだ。日本史上最初の都城は難波宮であるが、天武後継の持統天皇が奈良盆地南部に営んだ藤原京は、都城制を用いたものとしては日本史上最初の都城である。
大宝元年(701年)に大宝律令が施行され、律令制が本格的に導入され始めた。律令制の地域区分である五畿七道によれば、大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国の5国が五畿(畿内)とされたほか、丹波国・丹後国・但馬国が山陰道に、播磨国が山陽道に、紀伊国・淡路国が南海道に、伊賀国、伊勢国、志摩国が東海道に、近江国が東山道にそれぞれ区分されていた。
和銅3年(710年)には平城京(奈良市)への遷都が行われ、以後を奈良時代という。平城京には10万人が在住したと推定されており、突如として出現した日本最初の大都市であった。
8世紀後期になると、桓武天皇によって長岡京そして平安京(京都市)への遷都が相次いで実施された。この平安遷都の延暦13年(794年)から建久3年(1192年)までを平安時代という。平安後期には平清盛が福原京(神戸市)を計画した。
平安時代を通じて、畿内近国は朝廷の統治が比較的及びやすい地域だった。例えば、9世紀後期には諸官庁の経費をまかなうための官田が畿内に4000町設定されたほか、他の地域で次第に実施されなくなった班田が畿内諸国では10世紀まで継続した。平安中期に名田制が登場すると、名田の面積を均等化した均等名が多く見られた。平安後期の荘園公領制の形成過程では、他地域よりも荘園の増加が早く進行した。 鎌倉時代には武士による荘園・公領への侵出が著しくなったが、多くの権門(有力貴族や有力寺社)の権利が複雑に入り組む荘園・公領が汎在する畿内近国では、武士の侵出は他地域ほどとはならなかった。収入の増加を目論む権門は中国由来の農業技術や新たな農業技術の導入に努め、畿内は農業技術の先進地域となった。例えば、畿内では鎌倉時代までに早くも二毛作が実施されていた。 また一方では、商人・職人らが商業上・生産上の特権を得るために、有力寺社の神人となったり、天皇に奉仕する供御人となる動きが顕著に見られた。こうした神人・供御人らは獲得した特権を背景として座とよばれる同盟を結成し、畿内のみならず他地域に渡る広範な交易活動を展開した。 農業生産の向上と交易活動の広域化は鎌倉中期ごろから進展していき、畿内を中心に流通の活発化、銭貨の普及、そして社会の流動化をもたらすこととなった。従来の荘園領主・武士層とは異なる階層が急速に経済力・政治力を持ち始め、彼らは悪党と呼ばれた。後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した楠木正成も悪党の一人だったと考えられている。 悪党の台頭は社会構造の流動化を加速させ、従来は荘園領主・国衙・武士に支配されるのみであった村落が、自検断権を持ち領主と対等に交渉しうる惣村へと発達した。室町時代当時、惣村だけではなく、神人・供御人として広範な商業活動を行っていた土倉・馬借らや、在地武士層である国人らも高い自立性を有していた。その帰結の一つとして、15世紀前期から土一揆・徳政一揆・惣国一揆が発生した。こうした自立性・自主性の高さから、戦国時代になっても他地域のように戦国大名による一円的な支配は行われず、織田信長・豊臣秀吉の出現を待つことになる。 南北朝以降勘合貿易や南蛮貿易の拠点であった堺は、会合衆と呼ばれた有力商人らによる自治都市として栄え、「東洋のベニス」とも称された。しかし織田信長・豊臣秀吉の支配下で都市は解体され、商人の多くは古代から港湾都市である大坂へ移住させられた。 江戸時代になると政治の中心は江戸へ移ったものの、京と大坂を中心とする「上方」は依然文化・経済の先進地域として繁栄した。西廻り航路を通じて日本海沿岸から瀬戸内海沿岸の物資が集積する大坂は「天下の台所」と呼ばれる日本最大の商都に成長し、その経済力を背景に元禄文化が開花する。井原西鶴や近松門左衛門、坂田藤十郎などがその代表的人物である。また伊勢国と近江国からは有能な商人が輩出され、「伊勢商人」「近江商人」として名を馳せた。 江戸後期には江戸でも町人文化
中世
近世姫路城
近畿地方における有力な藩としては、徳川御三家の紀州藩(紀州徳川家、56万石)や彦根藩(井伊家、35万石)や姫路藩(池田家、52万石)や津藩(藤堂家、32万石)などがあった。紀州藩は西日本の鎮として睨みを利かせ、彦根藩は中山道沿線を領地として京都に対する備えとして、姫路藩は瀬戸内海に面する山陽道沿いを領地とし西国に対する備えとして、配置されていた。3藩とも幕府にとって重要な存在であったため、居城の和歌山城と彦根城と姫路城は大きな規模を誇っている。
光格天皇によって行われた朝廷権威の復権の取り組みを経て、幕藩体制が揺らいだ幕末には朝廷の地位が向上し、京都が一時的に政治的拠点としての機能を持った。幕府最後の将軍である徳川慶喜は一度も江戸に居住せず、二条城で大政奉還が行われた。
近現代神戸旧居留地宝塚歌劇団
明治維新を迎えると、天皇は京都御所を出て江戸に移ることとなった(東京行幸・東京奠都)。江戸は東京と改名され、国家機関も東京に置かれた。人材・産業の流出など畿内では衰亡の危機も危惧されたが、1897年(明治 30年)の京都帝国大学(現京都大学)の創立を初めとして、文化の拠点として復興が行われた。大阪に改称された大坂は、一時は大名貸しの破綻による経済後退もあったが、引き続き日本経済の中心地となり、やがて「東洋のマンチェスター」と呼ばれる一大工業拠点にもなった。幕末に海軍操練所が置かれて維新直前に開港した神戸は明治20年代末には東洋最大の港湾都市へと発展する。
廃藩置県では、一時堺県・大阪府に統合された奈良県が1887年に再分割された時点で、現在の大阪府、京都府、兵庫県、和歌山県、奈良県、滋賀県、三重県の枠組みが形成された。