近畿地方
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南紀:和歌山県南部[15]。三重県南部や奈良県南部を含めることもある。

気象情報における地域区分


北部(日本海側):京都府北部・兵庫県北部・滋賀県北部※(寒候期は北部、暖候期は中部)

中部(太平洋側):京都府南部・兵庫県南部・滋賀県南部・大阪府・奈良県北部・和歌山県北部

南部(太平洋側):奈良県南部・和歌山県南部
(一次細分区域、二次細分区域)気象庁
歴史「京阪神#歴史」、「奈良県#歴史」、「京都府#歴史」、「大阪府#歴史」、「兵庫県#歴史」、「滋賀県#歴史」、「和歌山県#歴史」、および「三重県#歴史」も参照

近畿地方は弥生時代以降人口が急増し、大陸の文化を吸収して発展した。
先史時代仁徳天皇陵(大仙陵古墳

弥生時代前期の畿内には、目立った政治勢力はまだそれほど成立していなかったと考えられている。当時の畿内に特徴的なのが、方形に区画するように溝を掘って作られた方形周溝墓である。

弥生時代後期になると、奈良盆地東南部に大規模な集落が出現した(纏向遺跡)。この遺跡からは、日本列島各地から流通してきたと思われる土器が非常に多数発見されており、また王宮跡と見られる大規模な遺構も見つかっていることから、弥生時代後期のの中心的な都市の一つだったと考えられている。魏志倭人伝に登場する邪馬台国の有力な候補地ともされている。

近畿地方はヤマト王権が3世紀半ばに成立し古墳時代が始り、大王と呼称された倭国首長であり河内王朝の始祖である仁徳天皇は難波 (なにわ:現在の大阪市) に都を定め皇居を難波高津宮(なにわのたかつのみや)(大阪市)とした。ヤマト王権は倭国を代表する政治勢力として成長していった。ヤマト王権の王(大王)は代々大阪平野奈良盆地に王宮を営み、また同地には王族や豪族たちの古墳が多数築かれた。和泉国大山古墳堺市)は仁徳天皇の墓と伝承されており、世界最大の規模を誇る。
古代法隆寺朱雀門(復元)平安後期には熊野詣が流行した鹿苑寺金閣(1955年再建)安土城

古墳時代が終わる6世紀中期頃から、王宮が奈良盆地南部の飛鳥に代々営まれるようになった。そのため古墳時代に続く時代区分を飛鳥時代という。

皇極天皇4年(645年6月12日)に乙巳の変蘇我入鹿が宮中で暗殺されると、孝徳天皇により大化の改新が行われ、難波高津宮以来、再び飛鳥から難波長柄豊埼宮大阪市)への遷都が実施された。

古墳時代後期から中国大陸や百済などからの渡来人が多数来朝しており、その一部は飛鳥時代に奈良盆地や大阪平野など畿内近国にも定着したが、大化2年(646年)改新の詔天智天皇2年(663年)白村江の戦いでの大敗を経て、天智天皇3年(664年)の甲子の宣で統治機構の再編が急務となり、天智5年(666年)から百済人の多くは東国へ移されて行き[16]、僅か郷数3だけ残った集落も平安時代末期までには消滅する。

その後、天智天皇が政権を握ると、天智天皇6年(667年)に大津京大津市)への遷都が行われた。

天武天皇元年(672年)には天智天皇の後継者争いから壬申の乱が勃発した。この古代最大の内乱は畿内を舞台に行われ、これに勝利した大海人皇子(天武天皇)は飛鳥浄御原宮明日香村)に遷都し、中央集権的な国家造りに取り組んだ。日本史上最初の都城は難波宮であるが、天武後継の持統天皇が奈良盆地南部に営んだ藤原京は、都城制を用いたものとしては日本史上最初の都城である。

大宝元年(701年)に大宝律令が施行され、律令制が本格的に導入され始めた。律令制の地域区分である五畿七道によれば、大和国山城国摂津国河内国和泉国の5国が五畿(畿内)とされたほか、丹波国丹後国但馬国山陰道に、播磨国山陽道に、紀伊国淡路国南海道に、伊賀国伊勢国志摩国東海道に、近江国東山道にそれぞれ区分されていた。

和銅3年(710年)には平城京奈良市)への遷都が行われ、以後を奈良時代という。平城京には10万人が在住したと推定されており、突如として出現した日本最初の大都市であった。

8世紀後期になると、桓武天皇によって長岡京そして平安京京都市)への遷都が相次いで実施された。この平安遷都の延暦13年(794年)から建久3年(1192年)までを平安時代という。平安後期には平清盛福原京神戸市)を計画した。

平安時代を通じて、畿内近国は朝廷の統治が比較的及びやすい地域だった。例えば、9世紀後期には諸官庁の経費をまかなうための官田が畿内に4000町設定されたほか、他の地域で次第に実施されなくなった班田が畿内諸国では10世紀まで継続した。平安中期に名田制が登場すると、名田の面積を均等化した均等名が多く見られた。平安後期の荘園公領制の形成過程では、他地域よりも荘園の増加が早く進行した。
中世

鎌倉時代には武士による荘園・公領への侵出が著しくなったが、多くの権門(有力貴族や有力寺社)の権利が複雑に入り組む荘園・公領が汎在する畿内近国では、武士の侵出は他地域ほどとはならなかった。収入の増加を目論む権門は中国由来の農業技術や新たな農業技術の導入に努め、畿内は農業技術の先進地域となった。例えば、畿内では鎌倉時代までに早くも二毛作が実施されていた。

また一方では、商人・職人らが商業上・生産上の特権を得るために、有力寺社の神人となったり、天皇に奉仕する供御人となる動きが顕著に見られた。こうした神人・供御人らは獲得した特権を背景としてとよばれる同盟を結成し、畿内のみならず他地域に渡る広範な交易活動を展開した。

農業生産の向上と交易活動の広域化は鎌倉中期ごろから進展していき、畿内を中心に流通の活発化、銭貨の普及、そして社会の流動化をもたらすこととなった。従来の荘園領主・武士層とは異なる階層が急速に経済力・政治力を持ち始め、彼らは悪党と呼ばれた。後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した楠木正成も悪党の一人だったと考えられている。

悪党の台頭は社会構造の流動化を加速させ、従来は荘園領主・国衙・武士に支配されるのみであった村落が、自検断権を持ち領主と対等に交渉しうる惣村へと発達した。室町時代当時、惣村だけではなく、神人・供御人として広範な商業活動を行っていた土倉馬借らや、在地武士層である国人らも高い自立性を有していた。その帰結の一つとして、15世紀前期から土一揆徳政一揆惣国一揆が発生した。こうした自立性・自主性の高さから、戦国時代になっても他地域のように戦国大名による一円的な支配は行われず、織田信長豊臣秀吉の出現を待つことになる。

南北朝以降勘合貿易南蛮貿易の拠点であったは、会合衆と呼ばれた有力商人らによる自治都市として栄え、「東洋のベニス」とも称された。しかし織田信長・豊臣秀吉の支配下で都市は解体され、商人の多くは古代から港湾都市である大坂へ移住させられた。


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