近江の国は、琵琶湖があり、多くの近江商人が船を使用して湖上を移動し、京都や大坂に出て商売をしたという説である。高島商人や八幡商人には、すぐ目の前が湖であるし、近江高島や近江八幡には、大きな堀があり、この堀に船を浮かべて荷物を運んだという事実は確かである。 しかし、近江日野や五個荘、 湖東三郡の方は、琵琶湖から遠い内陸部である。近江の地から出たどの商人も商売の形態は「行商」が中心であり、内陸部を周り歩いたのが事実であり、船を利用して湖上を移動した傾向が少ない。 近江の国は、琵琶湖が中央に存在して、全面積の六分の一を占めている関係上、農業生産が少なく、湖岸でも水害が発生し、田畑は多数の領主の支配を受けてきびしい収奪をされていた。貧農の二男や三男は、地元にこれといった産業もないので苦しい農民生活から離れて商人になったという説である。反論としては、今も昔も滋賀県は米の産地として産米高は全国でも多い傾向にあり、他国の農民よりも生活に余裕があった。さらに商人になる以前の職業を分析してみると、貧農よりも酒屋、地主、豪農であった家の息子が多く、農民としての生活に困って商人に転化したというケースは少ない。 近江商人の発生が、室町時代の後期から安土桃山時代にかけて戦国大名が行った経済政策である楽市・楽座からきているという説である。 この「雪解け説」を唱えたのは、小倉栄一郎氏で、その概略は次の通りである。江戸時代、封建領主は、自分の藩の領域経済を自立させるために、商人に対して種々の統制を行った。つまり商品が特定の領域経済の意志に基づいて、他藩または天領へ向かって運搬される動きを取り締まった。全国各地どこの藩でも、経済活動を厳しくして、農民の商人化や離農と移住を厳重に禁止したが、近江八幡や近江日野・近江高島・五個荘の一部では、他藩よりも一足早い時期に経済統制が緩みはじめ、自由な商業活動への道が開けた。これはちょうど雪原が解けて雪割草が白い花を咲かせる現象と同じなので、小倉栄一郎氏は、「雪解け説」と名づけた。 この説は、近江の国は近くに文化都市の京都や商業都市の大阪が存在し、古代から交通の要衝であったから商人が数多く生まれたという説である。近江は、東海道、北陸道、中山道、西近江路など、申し分のない交通網があって、草津や大津の宿で泊まり、逢坂山を越えるとすぐに京都で、そこから大阪まで歩いていくと、山陽道や山陰道に出て、西国地方へと通じる道がある。交通要衝説は、商業活動に大切な条件を備えており、特に湖東地方は、東海道、北陸道、中山道と三つの街道が通って、商売をする好条件が揃っていた。 司馬遼太郎は近江人の商才という特質は、渡来人に帰すると考えるのが一番素直であるとし、商人的素質をもった渡来人が移住し、本国に習って市を開き、比叡山と結んで専売権を確立、商権を拡張して飛躍し、全国の行商行脚に力を伸ばしたという説を述べている。[14]
農民生活困窮説
楽市・楽座説
雪解け説
交通要衝説
渡来人説
書籍
江南良三『近江商人列伝』 サンライズ出版。ISBN 978-4-88325-016-5
サンライズ出版編『近江商人に学ぶ』 サンライズ出版。ISBN 978-4-88325-238-1
小倉榮一郎
末永國紀『近江商人学入門―CSRの源流「三方よし」』 サンライズ出版。ISBN 978-4-88325-146-9
渕上清二
末永國紀『近江商人―現代を生き抜くビジネスの指針』 中央公論新社。ISBN 978-4121015365
映画
てんびんの詩 - 竹本幸之祐
博物館など
近江商人博物館 - 東近江市五個荘竜田町583。平成8年4月開館[15]。
近江八幡市立資料館 - 近江八幡市新町2丁目。旧西川利右衛門邸。
近江日野商人館 - 日野町大窪1011。旧山中兵右衛門邸。
日野まちかど感応館 - 日野町村井1284。旧正野法眼玄三邸。
近江日野商人ふるさと館 - 日野町西大路1264。旧山中正吉邸。
近江商人郷土館 - 東近江市小田苅町473。旧小林吟右衛門邸。
伊藤忠兵衛記念館 - 豊郷町八目128-1。旧伊藤忠兵衛邸。
豊会館(又十屋敷) - 豊郷町下枝56。旧藤野四郎兵衛邸。
豊郷町先人を偲ぶ館 - 豊郷町四十九院815。
高島歴史民俗資料館 - 高島市鴨2239。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 現在の東近江市五個荘小幡町。
^ 現在の彦根市八坂町。
^ 現在の彦根市薩摩町。
^ 現在の近江八幡市田中江町。
^ 現在の高島市安曇川町田中。