近代化
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人類学者のブルーノ・ラトゥールは「近代」に関する言説から、近代化とは人間的な社会文化の領域と、非人間な自然界の領域を分離・独立させる「純化」のプロセスと、文化と自然を融合させハイブリッドを生成する「翻訳」のプロセスの実践であると説いた[5]。近代論者は「純化」こそが近代化であると唱え推進しているものの、水面下では常に「翻訳」が行われており、近代化されているとされる西欧社会も実際には理念通りの近代には到達していないし、今後も到達することはないと論じた。ラトゥールは近代 - 前近代という直線的な相対化に疑問を呈し、近代化の過程で生じるハイブリッドを評価することで「近代人」という虚構を脱却する、「非近代人」という立場を提唱した[5]
産業化と近代化

近代化とは、産業化を中心として、それに関連した政治的・社会的・心理的その他、さまざまな変化の総体を指す。産業化は、ニュートン科学革命以来の科学技術の成果を系統的・累積的に活用して、生産力はじめ環境をコントロールする能力を高めていく過程でもあり、その本格化は18世紀後半のイギリスに始まった。いわゆる産業革命である。やがて、その動きはヨーロッパ大陸や北アメリカに伝わり、19世紀後半から20世紀初頭にかけてはロシア東欧日本もその動きに加わって、20世紀後半には全世界を覆うこととなった[6]
18世紀

16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでは、イタリア戦争ユグノー戦争三十年戦争など各地で戦争がつづいたが、その間、強国は領土を広げ、財政と軍備を整えて、海外に進出して、植民地を広げた。こうしたなか、新しい国際秩序ができあがった。ウェストファリア条約体制(主権国家体制)がそれであり、そこでは主権を主張する国は、宗教文化の違いをこえて対等な外交交渉をおこない、戦争のルールを定め、勢力の均衡をはかった。また、ウェストファリア条約では、神聖ローマ帝国内の各領邦は主権を認められ、オランダスイス独立も正式に承認された。
オランダの独立と勃興ウェストファリア条約(ミュンスター条約)締結の図(ヘラルト・テル・ボルフ画)

15世紀以来ハプスブルク家の所領で、カルロス1世フェリペ2世の時代を通してスペイン領となっていたネーデルラント17州では1568年より八十年戦争(?1648年)がはじまった。

16世紀前半のイギリスフランスカトリックに対するスペインの支援は混乱をまねき、属領ネーデルラントの商人や貴族のあいだにはカルヴァン派の信仰が浸透して、かれらはゴイセン(乞食)と呼ばれた。そもそもスペイン本国の産業は弱く、アメリカ大陸で獲得した富は毛織物工業で栄えたフランドルへ流出していたのである。

八十年戦争の勃発は、スペインにとって1587年無敵艦隊の敗北とともに没落の契機となった。それに代わり世界の海上権を握ったのが1581年に独立を宣言し、三十年戦争後のウェストファリア条約(1648年)で独立が正式に各国により承認されたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)であった。

共和政をとったオランダは1602年オランダ東インド会社を設立して、ジャワスマトラモルッカを植民地とし、香料貿易をさかんにおこなって、その拠点をバタヴィアに置いた(1619年)。さらに、台湾南部のゼーランディア城1624年)、北米のニューアムステルダム1626年オランダ西インド会社の設立は1621年)、南アフリカケープ植民地1652年)、南アジアではセイロン島コロンボ1656年)などを拠点に海外に勢力を拡大する。これによってアムステルダムリスボンに代わって西ヨーロッパ最大の商業・金融都市として発展した。

タスマンによる南太平洋探検(1642年?1644年)もおこなわれ、日本に対しては1609年平戸に商館を置き、1639年のポルトガル船来航禁止(鎖国の完成)以後はヨーロッパで唯一の貿易国として長崎での対日貿易を独占した。
イギリス議会王政と産業革命オリヴァー・クロムウェル第2次英蘭戦争中の1666年6月11-14日の海戦(エイブラハム・ストーク画)アブラハム平原の戦いで倒れるウルフ将軍(フレンチ・インディアン戦争)

イングランドでは処女王エリザベスに後継者がなかったことから、スコットランドよりスチュアート家ジェームズ6世をイングランド王として招いた(ジェームズ1世)。しかし、王権神授説の信奉者である王と議会とはしばしば対立し、1621年には「議会の大抗議」が起こっている。一方、1623年にはアンボイナ事件が起こってマラッカ以東のイングランド勢力がオランダ勢力によって駆逐され、同年、日本との交易からも撤退している。これ以後、イングランドはインドと北米大陸への進出に専念するようになる。

次のチャールズ1世の代になっても権利の請願1628年)、スコットランド反乱(1639年)、議会の大諫奏1641年)など政治の混迷は続き、王と議会の対立はついに内戦へと発展(ピューリタン革命)、1649年には国王チャールズ1世が処刑されてオリバー・クロムウェルによる共和政が始まった。

クロムウェルは、さまざまな特権や産業統制を廃止して商工業の発展に努力し、なかでも1651年にはオランダの仲介貿易における覇権の打倒を企図して航海条例を発布し、英蘭戦争(第1次)1652年?1653年)を引き起こしてオランダの海上権に打撃を与えた。

王政復古後、英軍が北米オランダ植民地ニューアムステルダムを占領したことを発端として、チャールズ2世を戴くイングランドとヨハン・デ・ウィット率いるオランダとの間で第2次英蘭戦争(1665年?1667年)が起こった。戦争の結果、ニューアムステルダムはイングランド領となり(現ニューヨーク)、オランダは北米における拠点を失うこととなった。これにより、オランダは大西洋における海上権を失い、転落傾向をみせはじめる。

その後、イギリスでは名誉革命1688年)が起こり、ステュアート朝のジェームズ2世が王位から追放され、議会は、ジェームズ2世の娘で熱心なプロテスタントであったメアリーとその夫でオランダ統領ウィリアム3世をイングランド王として即位させた。


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