辻政信
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同年9月には参謀本部付となり、編成班で勤務した[9]
参謀本部への転出と陸軍士官学校事件詳細は「陸軍士官学校事件」を参照

編成および動員を担当する第一課において当時課長を務めていたのは東條英機大佐であった。辻は1933年(昭和8年)8月に大尉に進級し、12月に参謀本部部員となり、第一部第三課に転じた[9]1934年9月になると、士官学校の幹事(副校長)に転じていた東條の誘いを受けて陸士本科の生徒隊中隊長に任命された。この人事は栄転であるモスクワ駐在武官職を断っての決断であり、また老大尉が多い生徒隊中隊長を陸大卒のいわゆる天保銭組が務めるのは前例がなかった。澄宮(後の三笠宮崇仁親王)が陸士本科に入学する予定であったことが関係しているとみられる。実際に澄宮は辻が中隊長を務める第一中隊に配属された。辻は演習で自ら生徒とともに泥まみれになるなど指導に力を入れたため生徒間での人気は非常に高かった[10]

当時の士官学校は1932年(昭和7年)に発生した五・一五事件の影響もあって、軍部による国家革新を目指す国家社会主義思想が広まっていた。そのリーダー格であった第二中隊の武藤与一候補生は、皇道派に属する陸大の村中孝次大尉や磯部浅一一等主計とも接触しており、さらに陸士第一中隊の佐藤勝朗候補生にも声をかけた。佐藤から報告を受けた辻は生徒隊長の北野憲造に報告した上で、佐藤には内偵を命じた。佐藤、武藤と数名の候補生は磯部浅一、西田税、村中孝次らを訪問し、しばらくして村中大尉らは青年将校と士官学校生徒によるクーデター計画を打ち明けた。この情報を得た辻は参謀本部の片倉衷少佐および憲兵司令部の塚本誠大尉に通報した。さらに辻は塚本とともに陸軍次官・橋本虎之助中将の官舎へとおもむき、容疑者の摘発を強く主張した。

憲兵隊は村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、片岡太郎中尉らを逮捕し、佐藤、武藤候補生らも軍法会議にかけられることになった。辻がスパイとして利用した佐藤を含め、陸士生徒5名が退校処分をうけ、青年将校らには不起訴、停職処分がくだされた。辻には重禁錮30日の処分がくだされ、その後、水戸の歩兵第2連隊付となった[11]

村中らのクーデター計画は具体性に乏しいものであったことが後の憲兵隊による調査で判明した。村中と磯部はこの事件が軍務局長永田鉄山と辻らによるでっちあげであると主張し、辻、片倉、塚本を誣告罪で告訴した。さらに2人は事件の経緯を書いた「粛軍に関する意見書」を配布したことで免官される。この陸軍士官学校事件、真崎甚三郎大将の教育総監罷免、相沢事件を経て統制派と皇道派の対立は頂点に達し二・二六事件の発生につながることになった[11]
関東軍への転出

二・二六事件後の1936年(昭和11年)4月に、片倉衷少佐の斡旋(あっせん)によって関東軍参謀部付となった。兵站を担当する第三課に配属され、満州事変の経過や戦術を詳細に解析している。満州国協和会の基本理念を固めるために上京した際には、当時参謀本部で戦争指導課長を務めていた石原莞爾と面会、満蒙についての理念を石原から教示された。石原との出会いは辻にとって衝撃的だったようで、これ以降、生涯にわたる石原崇拝が始まり、辻は石原のことを「導師」と呼び人生最大の尊敬を向けることになる。9月、植田謙吉大将(関東軍司令官)と板垣征四郎中将(関東軍参謀長)の名で、「満州帝国協和会の根本精神」なる声明がパンフレットとして、石原信奉者であった辻の筆により出された。法令により直接に規定する根拠がないのに協和会を共産党のように政府をも指導する機関と規定し、さらに関東軍司令官を“哲人”と書き、大問題となった。これに抗議して当時の満州国総務庁長・大達茂雄も辞任し、関東軍もパンフレットを必死に回収した騒動があった[12]

1937年(昭和12年)5月には満州事変後に奉天郊外の寺に安置されたまま弔われていなかった張作霖の葬儀を協和会の名で執り行っている。同年7月7日に発生した盧溝橋事件をきっかけとして国民革命軍支那駐屯軍との間に戦闘が発生すると、辻は関東軍の参謀長・東條英機や高級参謀・片倉衷らに同調して戦線拡大を主張した。この際、作戦主任の池田純久中佐に対しては、自らが爆撃機に乗って中国軍を爆撃すると申し出、この独断専行に驚いた池田がそのようなことをすれば戦闘機を用いてお前の飛行機を撃ち落とすと話したためこれを断念している。7月末には支那駐屯軍への転出を自薦し、8月に新たに編成された北支那方面軍参謀となった。上下を問わず不良軍人狩りを実施し綱紀粛正に努め、兵士や平民から「今様水戸黄門」と評された。また、汪兆銘政権への秘密工作を実行した。しかし、上司である北支那方面軍高級参謀の下山琢磨大佐と以前トラブルを起こしていた経緯があり、11月に関東軍作戦参謀に転じた。1938年(昭和13年)3月に少佐に進級した。
ノモンハン事件「ノモンハン事件」も参照

1939年昭和14年)4月に「満ソ国境紛争処理要綱」が布告された。これは作戦参謀の辻が起案し関東軍司令官・植田謙吉大将が通達したものであった。ここでは、当時国境線が明確に決定されていなかった地点において、現地司令官が自主的に国境線を認定し、衝突が発生した際には兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。「侵さず侵しめざることを満州防衛の根本とする」、「万一侵されたら機を失せず膺懲する」などの記述を辻は拡大解釈し利用することになった[6]

5月11日、外蒙古満州国が共に領有を主張していたハルハ河東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。戦後の著書『ノモンハン』において辻は次のように記している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}幕僚中誰一人ノモンハンの地名を知っているものはいない。眼を皿のようにし、拡大鏡を以って、ハイラル南方外蒙との境界付近で、漸くノモンハンの地名をさがし出した。

この記述は『ノモンハン』の出版当時、紛争に深く関わった辻の無責任さをよく表しているとして強い批判の対象となった。

ハイラルに駐屯する第23師団は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていたソビエト連邦でもゲオルギー・ジューコフ中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古のタムスク航空基地の空爆を計画した。これを察知した東京の参謀本部は電報で中止を指令したが、辻はカンジュル廟とハロンアルシャン付近を相手空軍が越境爆撃している以上、外蒙古のタムスク航空基地爆撃を行うことは認められるとしてこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに陸軍刑法第37条の擅権の罪[13] に該当する重罪であった。紛争はジューコフによる攻勢によってソ連軍優位に進み、8月31日に日本軍は係争地域から撤退、9月16日に日ソ間で停戦協定が成立した。

ノモンハン事件の和平交渉は12月7日から25日までソ連のチタで、続いて翌年1月7日から30日まではハルビンで行われた。1月30日には全ての交渉が終わり署名を残すのみとなっていたが、ソ連・蒙古代表団は合意を覆して1月30日に帰国してしまった。当時、満州国代表団に補佐官として加わっていた北川四郎は、当初「ロシア人は全く信用ができぬ」と憤慨していたが、会議において満州国代表を務めた外交部政務司長の亀山一二から戦後になり、辻が白系ロシア人を使って、会議が合意した場合、ソ連代表ボグダーノフ少将と外蒙古代表ヂャムサロンを殺害すると脅したことが原因であると聞いている[14]。戦後、辻は「戦争は敗けたと感じたものが、敗けたのである」「外交もまた、敗けたと思うものが、敗けるのである」と記している[15]

ノモンハン事件では第23師団捜索隊長井置栄一中佐や歩兵第七十二連隊長酒井美喜雄大佐など、辻によって自殺を強要された将校がいた[16]。辻は捕虜交換によって戻ってきた将校たちにも自殺を強要した[17][18]大谷敬二郎も、捕虜から帰還した将兵に辻が自殺を強要していたとの噂があったと述べている[19]

事件収束後、辻と、関東軍作戦課を取り仕切っていた主任参謀・服部卓四郎中佐は、辻は第11軍漢口)司令部付、服部は歩兵学校付・教育総監部付に左遷された[注釈 2][20]
ノモンハン事件後

第11軍司令部付となった辻は軍紀係を命ぜられ、夜の漢口の街を厳しく取締った[注釈 3]。第11軍参謀の山本浩一少佐が頻繁に料亭に出入りし情報収集代として金銭を渡していたことを中央に告発し、山本が東京に召喚されるという事件があった[注釈 4]


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