辺見マリ
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1967年、高等部2年生になると両親の賛成で休学し、軽自動車免許を取ったばかりのマリは愛車のホンダN360と共に下向、浜口庫之助の下で厳しいレッスンを積みながら、間もなく渡辺プロへ入社[5]

1969年11月に「ダニエル・モナムール」でデビュー。翌1970年、20歳の時に発売したセカンドシングル『経験』の「やめてぇ」と溜息混じりの歌い方が話題になり、大ヒット[1]。曲と共に本人の大人びた容姿も相まってブレイクし、同年の第12回日本レコード大賞新人賞やゴールデン・アロー賞グラフ賞などいくつもの賞を受賞した[1]。以降、同年に「私生活」、翌1971年に「めまい」等をリリースし、セクシー歌謡の歌手として活躍。『私生活』で第21回NHK紅白歌合戦に初出場するなど、睡眠時間は3時間という多忙な日々を送った[1]

ところが、人気絶頂時の1972年に同じく人気歌手の西郷輝彦と(当時マリは22歳、西郷は25歳で)結婚し、芸能界を引退[1]。結婚の翌年に長男、26歳で長女・えみりを出産し、2児の母となったが1981年に離婚し、芸能界に復帰[4][1]

1993年にはヘアヌード写真集「INFINITO」を発売[6][7]。これと前後して1993年には娘の辺見えみりがドラマ『いちご白書』でデビューする。1998年に発売したCDシングル『Good-Bye あばよ』では、えみりがジャケット写真の撮影を担当した。

遡って38歳の頃(1988年頃)から金銭トラブルに見舞われ、それによる騒動や上記の熟女ヌード写真集の発売に至ったことなどが、その後ワイドショーで話題になる。さらにその後、この時の金銭トラブルは「拝み屋」が原因だったことを『Dのゲキジョー ?運命のジャッジ?』(フジテレビ系)出演時に告白している。また、「拝み屋」にはまっていたことで、えみりと絶縁状態になっていた時期がある(現在は和解している)。

2001年に年下の宝石デザイナー河澄信介と再婚するが、2005年に離婚。

現在は歌手やテレビタレント以外にもミュージカル等の舞台でも活躍中。

近年は「夢スター歌謡祭 春組対秋組歌合戦」に出演し、全国各地を回っている。

2015年、バラエティ番組『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系)に出演し、上記の38歳頃から拝み屋に洗脳されて大金を失った話を打ち明け、視聴者から大きな反響を呼んだ[1]
エピソード
生い立ち

流しの歌手をする父(義父)と明るい性格の母に大切に育てられた[注釈 1]。以後高校生の頃まで、マリは自分がハーフであること[注釈 2]や、一緒に暮らす父が育ての親であることを知らずに育つ[1]

幼稚園に入園した4歳の頃よりバレエを始め、京都でも有名なバレエの先生である木村陽子・谷桃子両氏による指導の下、年に5?6回は舞台に立つようになる。また、錦林小学校3年生の頃には、一流のバレリーナになることを夢見るようになる。ただし小・中学生の頃は、学校で仲間はずれに遭うなど友人関係がうまく行かなかったため、学校生活はあまり好きではなかった[1]

平安女子中等部入学後は、アイススケートに半年ほど凝っていた。2年生の時、カンツォーネジャズに出会い虜(とりこ)になる。それまで京都会館にはバレエでよく舞台に立っており、3年生でナベプロのスタッフから「君踊れるって聞いたけど、歌は歌えるかい?」とスカウトされた[注釈 3]時は、すっかりジャズに陶酔していたこともあって快諾したという。

1967年10月6日(17歳の頃)、芸能界入りを前に母から「変な形で耳に入ると良くないから」と、実父の存在とマリが混血児であることを告白される[1]。その際、万理が生後2ヶ月の時に母・美保子はスペイン系アメリカ人の夫と別れ、やがて2歳になる頃には京都へ移り、逸見覃(へんみひろし[注釈 4])と再婚したことを知らされた。それまで自分は純粋な日本人だとばかり思っていた万理にとって母の話は衝撃的だったが、実の子のように育ててくれた義父がやはり自分にとって本当の父親だと確信する[8]
結婚生活、芸能界復帰

歌番組で共演した人気歌手の西郷輝彦と交際に発展し、1972年に西郷との結婚によりあっさり引退した[注釈 5]。結婚後、西郷はドラマ『どてらい男』(関西テレビ制作・フジテレビ系で放送)に主演すると、3年半に渡るヒットシリーズになったことから大阪での撮影が続いた。その撮影期間中、育児に追われる辺見の様子を見かねた西郷の提案[注釈 6]によりマリは(結婚後の自宅で)自分の両親を呼び寄せて同居を始めた。本作の撮影後から西郷も一緒に暮らしたが、その後夫とは別居状態となり、1981年に離婚[注釈 7]

クイズ番組のアシスタントを頼まれたのをきっかけにタレント業に復帰し、以後両親や子どもたちとの生活を支えるため懸命に働いた[1]。復帰直後はCMなどの大きな仕事もあったが、歌手としては新たなヒット曲に恵まれず、次第に地方の温泉地のショーやキャバレーで歌う仕事(いわゆるドサ回り)がメインになった[1]。またこの頃は、デビュー当時のセクシーなイメージが強すぎて、映画やドラマの出演依頼が来ても脱ぐ仕事ばかりで断ることも多かったという[1]
金銭トラブル
拝み屋Kとの出会い

復帰から8年後(38歳)、当時のマネジャー・Sから「僕の知り合いで、神様と話せる人がいるんですけど会ってみませんか?」と誘われた。当時思うように仕事ができない不安と焦りから[注釈 8]霊能力を持つという拝み屋の中年女性・Kと会ってみたところ、相手は熱心に話を聞いてくれた。また当時抱えていたマリの悩みを次々と言い当てた[注釈 9]ため、以降何でも相談するようになった[1]。最初は自らの意志で拝み屋に1回5,000円?1万円の謝礼を渡していたが、ある日を境に相手から色々と理由[注釈 10]を付けて“厄払い”としてお金を要求され、以降徐々にその金額が上がっていった[注釈 11]

当時Kの周囲にはSの他、Kの家族やKの友人女性Aなどがおり、毎日Kたちは集まって“修行”と称して拝んでいた[1]。マリは厄払いのためにKのもとに訪れていたが、Kたちは彼女をわざと修行に誘わなかった[1]。これはKたちがわざとマリの嫉妬心を煽るというテクニックだったが、既に洗脳状態となっていたマリ[注釈 12]もほどなくして仲間に加わり、毎日朝から晩まで修行するようになった[1]。異変に気づいたえみりたち家族やマリの友人から、修行に行くのを辞めるよう説得されたが、マリは全く耳を貸さなかった[1]
新・拝み屋Aとの生活

後日Kがいなくなると新たにAが拝み屋に成り代わり、要求される金額がそれまでとは桁違いに増加した[1]。この頃にはマリはほとんど仕事をせずに修行をし、Aはマリが工面した金から、生活費をマリに渡していた[1]。しかし金が尽きたことでAはマリを歌の仕事に復帰するよう告げた[1]。ただし拝み屋Aが修行中に出す食事のせいで、マリは以前より20kgも太ったが、Aの指示でダイエットしてから歌手業を再開させた[注釈 13]。しかし外の世界に触れ、ステージで歌唱後にファンからの温かい拍手をもらったことで、拝み屋との生活に違和感を感じるきっかけになった[1]


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