年度/放送回回曲目出演順対戦相手
1970年(昭和45年)/第21回初私生活15/24フランク永井
注意点
出演順は「出演順/出場者数」で表す。
書籍
「空白の1095日―“経験”エッセイ」(1992年4月、廣済堂出版)
「辺見マリの実戦!やせるメニュー (JOSEI SEVEN BOOKS)」(1994年4月、小学館)
「もうひとつの経験―本当の絆をつかんだ親子の愛」(2003年3月、青春出版社)
写真集
「INFINITO―辺見マリ写真集」撮影:谷口征(1993年5月、竹書房)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 実際にはマリの下に双子の弟が生まれたが、生後間もなく二人とも亡くなったこともあり、マリは一人娘のように大切に育てられた[1]。
^ 黒髪ではないマリからハーフと気づかれないよう、母親は髪を娘に合わせて明るい色に染めていた。このため、マリは後年に知らされるまで母と同じ“純粋な日本人である”と疑わずに育ったとのこと。
^ 当日、マリは顔なじみの会場スタッフに頼んで、出演者である布施明のサインをもらうため関係者用の廊下を歩いていた。するとマリの存在に気づいたナベプロが、会場スタッフから彼女にバレエ経験があることを聞き、上記のようにスカウトしたという[1]。
^ ひろしの漢字は、「西」の真下に「早」。
^ 人気絶頂時での引退について本人は、「芸能界でスターになることに加え、愛する人ができたら結婚するというのも私のもう一つの夢だった。当時の私には結婚生活と仕事を同時にすることはできないから、西郷さんを支える縁の下の力持ちになろうと思って引退したんです」と述懐している[1]。
^ 西郷から子育てのためにマリの両親との同居を提案され、「その方が僕も安心して留守にできるから」と言われたという[1]。
^ 離婚の経緯についてマリは後年、「今思えば、同居生活で家族がお互いに気を遣い過ぎたのが原因かもしれません。その後西郷さんはだんだん家に帰ってこなくなってそのまま別居状態になり、結局結婚生活は9年で終わりました」と回想している。[1]。
^ Sから話を聞いた時は、正直『コイツ、何言うてんねん(笑)』と思いました、でもそれから間もなく、私のディナーショーのポスターを見た人が『辺見マリってまだ歌手やってんの?もう古くねえ?』と悪口を言うのを偶然聞いてしまい、ひどく落ち込んじゃって…」と述懐している。