東ヨーロッパでは14世紀以降、中世の農奴制の姿がほとんど変化せずに存続してきた。18世紀から19世紀にかけて、啓蒙専制君主の手による農奴解放の動きが生まれたが、不完全な形であったり領主の激しい抵抗を受けたりした。ロシアでは、1861年にアレクサンドル2世が農奴解放令を発し、公的には農奴制が廃止された。勅令発令後も多くの農民は先祖代々の土地に縛り付けられたままだったが、農民が土地を売買したり、土地を持たない農民が都市に移住したりすることができるようになった[6]。なお、1861年の農奴解放令以前から、ロシアの農奴制は徐々に衰退してきていた。18世紀末には人口の45%から50%を占めていた農奴は、1858年には37.7%まで減少していた[7]。
近世ドイツ『祝う農民』(作者不詳、18世紀 - 19世紀)
19世紀までのドイツでは、農民は村の共同体に所属して、共有財産を管理していた[8]。特に東部では、彼らは永久に土地に縛り付けられた農奴であった。彼らは、ドイツ語ではバウアー(Bauer)、低地ドイツ語ではボアー(Bur)と呼ばれた。
ドイツのほぼ全域の農民は、地主貴族に地代や労役を納める義務を負った小作農だった[9]。農民の代表は、農地を監督して溝渠権や放牧権を管理し、村では軽犯罪を裁く小法廷を取り仕切った。農民の家庭内では家長がすべての決定権を握り、子どもたちにより有利で恵まれた結婚をさせられるよう努めた。大部分の農民の村規模での活動は、教会と祝祭日を中心としていた。プロイセンでは、徴兵される者を選ぶために農民たちが村でくじ引きを行った。貴族は自らの領地の村に対して非常に強い影響力を持っていたが、日常生活にまで介入することは滅多になかった[10]。 歴史家のユージン・ウェーバー 中国における農夫 (?夫)は、元々単に農業労働者を指す語であった。19世紀に日本の知識人が中国の封建制と西洋のフューダリズムを結び付け、封建時代の日本社会の農業従事者(百姓など)を西洋の中世的な「農民」の概念に位置付けた[14]。こうした動きは、中国において農夫が下層民とされるそれまで存在しなかった社会構造を生み出した。人類学者のミーロン・コーエンは、この新たな意味を持つ「農夫」という語の誕生は、マルキストなど西洋的な視点を取り入れた人々が中国農村を遅れた地域とみなすようになったことなどの、当時の文化的・政治的な社会革新を象徴しているとしている[15]。現代の西洋でも、中国の「農業労働者」を指すときにpeasantの語を用いることが多い[16]。これは、中国が農村の人々によって「中世的」で遅れた地域にとどまっているとする西洋の価値観によるものだという指摘がある[17]。コーエンは「西洋史上での都市と農村、店主と農民、商人と領主というように賦課の役割を対比するやり方は、中国の経済的な伝統像を歪めるのにしか役立っていない。」と述べている[18]。 12世紀に活躍したラビのモーシェ・ベン=マイモーンは、ブーア(農民、bur)を、トーラーによる道徳教育、徳をいずれも持ち合わせておらず、またそれらを得る能力もない人間のことだと述べた。彼はユダヤ教の聖典から、愚かさと賢明さによって人間を5つの階級に分けた。
19世紀フランス
東アジアの「農民」
ユダヤ教における農民