農奴
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戦国時代に来航したポルトガル商人は主従関係に拘束され自由でない身分を奴隷と考えており、ポルトガル人の理解する奴隷には様々な身分が含まれたことが指摘されている[23][24]。それでは彼らが日本人の奴隷と考えたのは日本のどのような身分の者であったのか。……『日葡辞書』をみると、奴隷を意味する criado, servo とか captivo の語は、Fudaino guenin(譜代の下人)、Fudaino mono(譜代の者)、Fudasodennno mono(譜代相伝の者)、Guenin(下人)、Xoju(所従)、Yatcuco(奴)等の語にあてられている。彼等が日本の奴隷と解した、譜代の者とか譜代相伝とか称せられた下人や所従は、終生或は代々に渡り、農業労働や家内労働に使役されていたし、実際国内では人身売買の対象となっていた[23]。 ? 人身売買 (岩波新書)、牧 英正、1971/10/20, p. 60

奴隷という用語が労働形態、社会集団を隠蔽することで、ポルトガル人が理解していた奴隷の概念の詳細が把握されてこなかった。ポルトガル語で「奴隷」という語は一般的に「エスクラーヴォ escravo」と表される。日本でポルトガル人が「エスクラーヴォ」と呼ぶ人々には、中世日本社会に存在した「下人」、「所従」といった人々が当然含まれる。しかし、日本社会ではそれらと一線を画したと思われる「年季奉公人」もまた、ポルトガル人の理解では、同じカテゴリーに属した[24]。 ? 日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話、東京大学史料編纂所 (著)、 中公新書、2014/12/19、p77-8.

ポルトガル人は日本人が一般的な雇用形態とみなした年季奉公人も不自由な封建的主従関係である事から奴隷とみなすなど、各種奉公人はポルトガル人の基準では奴隷であった[24]。ポルトガルでは不自由な主従関係における従属は奴隷であり、私的に使役される傭兵(武家奉公人)や銭雇いの雑兵も奴隷の名称で分類された[25]
年季奉公人

日本においては、中世に始まる下人(永年奉公)が年季奉公の形を取り始めるのが江戸期であり、農村奉公人、武家奉公人、町家奉公人などの種類によって分けられる。江戸時代の代表的奉公には、子子孫々に至るまでの事実上の永代の身売りつまり奴隷である譜代奉公、身代金を支払って請戻す本金返年季奉公、借金担保人質として奉公人を金主に渡し質流になれば上記の譜代奉公に転じる質物奉公、そして年季を定めた年季奉公があった[26]

江戸時代前期の主流は先祖から奴婢下人の系譜を引く者や刑罰,年貢未納,永代身売り,誘拐,人質の質流れ等に因る終身又は永代の永年奉公や譜代奉公で、後期の主流は農村から都市への様々な形式の身売りに因る年限を限って売られた流入民であり、共に奉公人は人身売買の対象となったが、後者はより雇用関係要素が強い。江戸幕府は法律上は金銭による終身の奴隷契約を禁止したが、実際においては父や兄が子弟を売ることは普遍的且つ一般的に存在し結果的に終身になる事も珍しくなかった、また年限を限った主従契約である年季買いは非合法でなかった[26]。主人と奉公人との間には法律が適用されず家父長権に因る主人の私的制裁権が認められ、忠誠の関係があるべきものとされた。奉公人は主人を訴えることが許されず、日本国外で呼ぶところの奴隷であった[27]

幕府は元禄11年(1698年)には年季制限を撤廃して永年季奉公や譜代奉公(永代の世襲身分)を容認した[28]

美濃国安八郡西条村の例では、1773年から1825年の間に奉公を経験した者は男子50.3%、女子62%に達した。(11歳に達した者に対する率)[29]
時効・相続

貞永元年8月10日(1232年8月27日)に制定された御成敗式目では、賤民、下人等の雑人は(逃亡等から)10年以上放置すれば(人返しされなければ)所有権は無効と定められた。

本百姓と世襲的な借家・小作関係にある譜代下人も存在した。地方によっては家抱、門屋、庭子、内百姓、名子と呼ばれ、強い隷属性を特徴とし、村内での地位は農奴である水呑百姓以下の奴隷で、地域によって異なるが人口の10%程度存在していた。
作手、領主との請負関係

中世ヨーロッパの農奴は耕作した土地の耕作権および相続権を持ち、移動・職業の自由を金銭的に購入することができたが、中世日本の作手には耕作権、専有権しかないとの従来からの通説と、領主の持つ上級所有権に対して不文律的な下級所有権が一部にあったとの異説が混在する。

前者の説では、移動や職業選択が制限され耕作権しかもたない百姓は中世ヨーロッパの農奴と比較されてきた[30]

後者の説では不文律的な下級所有権を持つとされる本百姓は、自由権と土地所有権が成文法で保障された中世ヨーロッパの独立自営農民との対比が試みられてきた。但し、水呑百姓下人の隷属的な請負関係は耕作権ではなく労働力の供出義務であるから影響しない。中世も時代が下り室町時代後期に至ると、土地の耕作権、占有権の売買が見られる様になる、これは前述の不文律慣習的な下級所有権の観念が無ければ行われない。

作手は有期耕作権、永作手は永代耕作権として区別する見解が有力であるが、一部に同一とする見方もある。
地主制度への移行

明治期、地租改正によって土地の私的所有権が成文法で確立されたが、高額な税率によって地主制度が形成された。

1947年、GHQ地主制度を解体するために農地改革を行った。財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く、GHQの威を借りる形で行われた。全農地面積の約47%が買収され、小作人の家に売り渡された。
南北アメリカ地域における農奴制「奴隷貿易#大西洋奴隷貿易」、「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」、「プランテーション#人道上にある問題」、および「南北戦争の原因」も参照

15世紀に始まる大航海時代から19世紀前半にかけて、イギリスを中心としたヨーロッパとアフリカとアメリカ大陸を結んで展開された(三角貿易)。当初は、西インド諸島やブラジルでのプランテーション経営の労働力として徴用され、やがてイギリスがバージニア植民地に入植するとアメリカ本土、特に南部で農奴や西部では金鉱採掘の労働力として利用された。アメリカ本土では、1865年アメリカ合衆国憲法修正第13条の成立で終わったことになっている。
アジア地域における農奴制「奴隷#アジア」も参照


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