農奴
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奉公人は主人を訴えることが許されず、日本国外で呼ぶところの奴隷であった[27]

幕府は元禄11年(1698年)には年季制限を撤廃して永年季奉公や譜代奉公(永代の世襲身分)を容認した[28]

美濃国安八郡西条村の例では、1773年から1825年の間に奉公を経験した者は男子50.3%、女子62%に達した。(11歳に達した者に対する率)[29]
時効・相続

貞永元年8月10日(1232年8月27日)に制定された御成敗式目では、賤民、下人等の雑人は(逃亡等から)10年以上放置すれば(人返しされなければ)所有権は無効と定められた。

本百姓と世襲的な借家・小作関係にある譜代下人も存在した。地方によっては家抱、門屋、庭子、内百姓、名子と呼ばれ、強い隷属性を特徴とし、村内での地位は農奴である水呑百姓以下の奴隷で、地域によって異なるが人口の10%程度存在していた。
作手、領主との請負関係

中世ヨーロッパの農奴は耕作した土地の耕作権および相続権を持ち、移動・職業の自由を金銭的に購入することができたが、中世日本の作手には耕作権、専有権しかないとの従来からの通説と、領主の持つ上級所有権に対して不文律的な下級所有権が一部にあったとの異説が混在する。

前者の説では、移動や職業選択が制限され耕作権しかもたない百姓は中世ヨーロッパの農奴と比較されてきた[30]

後者の説では不文律的な下級所有権を持つとされる本百姓は、自由権と土地所有権が成文法で保障された中世ヨーロッパの独立自営農民との対比が試みられてきた。但し、水呑百姓下人の隷属的な請負関係は耕作権ではなく労働力の供出義務であるから影響しない。中世も時代が下り室町時代後期に至ると、土地の耕作権、占有権の売買が見られる様になる、これは前述の不文律慣習的な下級所有権の観念が無ければ行われない。

作手は有期耕作権、永作手は永代耕作権として区別する見解が有力であるが、一部に同一とする見方もある。
地主制度への移行

明治期、地租改正によって土地の私的所有権が成文法で確立されたが、高額な税率によって地主制度が形成された。

1947年、GHQ地主制度を解体するために農地改革を行った。財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く、GHQの威を借りる形で行われた。全農地面積の約47%が買収され、小作人の家に売り渡された。
南北アメリカ地域における農奴制「奴隷貿易#大西洋奴隷貿易」、「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」、「プランテーション#人道上にある問題」、および「南北戦争の原因」も参照

15世紀に始まる大航海時代から19世紀前半にかけて、イギリスを中心としたヨーロッパとアフリカとアメリカ大陸を結んで展開された(三角貿易)。当初は、西インド諸島やブラジルでのプランテーション経営の労働力として徴用され、やがてイギリスがバージニア植民地に入植するとアメリカ本土、特に南部で農奴や西部では金鉱採掘の労働力として利用された。アメリカ本土では、1865年アメリカ合衆国憲法修正第13条の成立で終わったことになっている。
アジア地域における農奴制「奴隷#アジア」も参照

アジアの農耕社会の奴隷は、一般衆民とは労働の差異に関する制約がほとんどで農奴に近く、欧州に比べて権利が保証されていた。
チベット

中国による編入以前にチベットに潜入した河口慧海木村肥佐生西川一三等により、チベット社会における農奴制をはじめとする詳細な報告がなされている。これらの報告によると、チベット人の主食である小麦を生産していたのは少数の貴族が所有していた荘園であり、その労働力は人間として扱われない農奴であったこと、これら農奴が現実の生活に対して疑念を抱かないように、輪廻転生と来世への因果の恐怖で信者を拘束していたことが記録されている[31]
イスラム社会における農奴制フェラー 「イスラームと奴隷制」も参照

農奴に相当する物としてフェラヒンアラビア語: ??????? ‎)がある。現代におけるアラビア語では普通に農民の意味として用いられているが、日本や欧米では「フェラー」(Fellah)としてイスラム社会における農奴あるいは小作人の意味で用いられている。

元々はアラブ人征服者が征服支配した土地に土着する農民をフェラヒンと呼び、支配された人々が実質的に奴隷として扱われたことから農奴としての意味合いで用いられるようになった。現代でも被征服者のエジプト民族に対する名称としてフェラヒンという呼び方が用いられることもあり、地方の農耕民の別称として扱われる場合もある。

イスラム社会では法制度として農奴制は明確な廃止をされないまま現代に至るため、欧米のように明確に農民と農奴が区別されることがなく曖昧なままである。
農奴制が公式に廃止された年月日

ワラキア1746年

モルダビア1749年

ザクセン1771年12月19日

 オーストリア1781年1月11日(第一次、第二次は1848年

ボヘミア1781年11月1日(第一次、第二次は1848年)

バーデン1783年7月23日

 デンマーク1788年6月20日

フランス1789年3月11日


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