農奴
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更に南部のドン・コサック軍は慣習法をたてに逃亡者の引き渡しに応じなかったために、彼らの軍事力に依存する部分が多かったロマノフ朝を悩ませる原因となった[13]1856年クリミア戦争における敗北によって近代化の必要性を痛感したアレクサンドル2世が、1861年農奴解放令を出したことで農奴制は廃された。
日本における農奴制

律令制度では五色の賎は百姓の3割を占めており、私奴婢は子孫に相続させることが可能であった。

室町期の在地領主などが欠落(かけおち)した百姓、下人などを連れ戻すことがあった。百姓は年貢を完納している場合、もとの領主に拘束されることはなかったが、下人は無条件に本主の下に戻された。

戦国時代、下人だけでなく百姓の人返しが分国法、人返し令書、朱印状として発布され、欠落の返還が拡大、強化された。

豊臣政権は兵農分離態勢を確立するために太閤検地、人身売買禁止令、人返し令、武家奉公人身分統制等の政策を推進したが、これらの政策によって生産構造が奴隷制から農奴制に移行したとみなされ、中世から近世への時代区分になったとされている[14][15]。「人身売買禁止令は、中世奴隷制から近世の農奴制へと日本社会を発展させた革命的な政策の一つと見なされることになった」[16]

江戸時代に入ると逃散は厳しく禁じられ、移住も原則として認められなかった。

江戸時代の平均的農民は幕藩領主によって土地緊縛されているところから、広義における農奴とみなし、生産物地代負担という点から、狭くは隷属とする定説が広く認められている[17]

1557年、ガスパル・ヴィレラは日本には貴族と僧侶、農民の社会階層があると論じ、貴族と僧侶は経済的に自立しているというが、農民は前二者のために働き、自分たちにはごくわずかの収入しか残らない奴隷状態にあると述べている[18]

ポルトガル人は日本社会での農家使用人(小作人)を奴隷に分類した。コスメ・デ・トーレスは日本の社会について以下のように語っている。(日本の社会において)使用人(小作人)や家内奴隷は地主に仕え、ひどく崇拝する。なぜなら、どんな質の高い人でも使用人に不従順なところがあれば、殺してしまえと命令するからである。そのため使用人たちは主人にとても従順で、主人と話すときは、たとえとても寒いときでも、いつも頭を下げてひれ伏している[19][20]

コスメ・デ・トーレスは日本人の主人は使用人に対して生殺与奪の権力を行使することができるとして、ローマ法において主人が奴隷に対して持つ権利 vitae necisque potestas を例証として使い、日本における農民等の使用人の地位は奴隷のものであるとした[21]。このように日本における小作人の地位は農奴ではなく奴隷とされた。

中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、武家の検断人から自分や他人を人質として差し出すことを求められ、税金を全額完納出来ない場合は全ての資産家財を没収した上で人質が売却され奴隷身分へ落とされる等、農民から奴隷への身分落ちは普遍的に認められ、中世前期農村では農家の存続する平均世代数が3?4代である等、農家の維持は簡単な事では無かった[22]
下人と所従

戦国時代に来航したポルトガル商人は主従関係に拘束され自由でない身分を奴隷と考えており、ポルトガル人の理解する奴隷には様々な身分が含まれたことが指摘されている[23][24]。それでは彼らが日本人の奴隷と考えたのは日本のどのような身分の者であったのか。……『日葡辞書』をみると、奴隷を意味する criado, servo とか captivo の語は、Fudaino guenin(譜代の下人)、Fudaino mono(譜代の者)、Fudasodennno mono(譜代相伝の者)、Guenin(下人)、Xoju(所従)、Yatcuco(奴)等の語にあてられている。彼等が日本の奴隷と解した、譜代の者とか譜代相伝とか称せられた下人や所従は、終生或は代々に渡り、農業労働や家内労働に使役されていたし、実際国内では人身売買の対象となっていた[23]。 ? 人身売買 (岩波新書)、牧 英正、1971/10/20, p. 60

奴隷という用語が労働形態、社会集団を隠蔽することで、ポルトガル人が理解していた奴隷の概念の詳細が把握されてこなかった。ポルトガル語で「奴隷」という語は一般的に「エスクラーヴォ escravo」と表される。日本でポルトガル人が「エスクラーヴォ」と呼ぶ人々には、中世日本社会に存在した「下人」、「所従」といった人々が当然含まれる。しかし、日本社会ではそれらと一線を画したと思われる「年季奉公人」もまた、ポルトガル人の理解では、同じカテゴリーに属した[24]。 ? 日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話、東京大学史料編纂所 (著)、 中公新書、2014/12/19、p77-8.

ポルトガル人は日本人が一般的な雇用形態とみなした年季奉公人も不自由な封建的主従関係である事から奴隷とみなすなど、各種奉公人はポルトガル人の基準では奴隷であった[24]。ポルトガルでは不自由な主従関係における従属は奴隷であり、私的に使役される傭兵(武家奉公人)や銭雇いの雑兵も奴隷の名称で分類された[25]
年季奉公人

日本においては、中世に始まる下人(永年奉公)が年季奉公の形を取り始めるのが江戸期であり、農村奉公人、武家奉公人、町家奉公人などの種類によって分けられる。江戸時代の代表的奉公には、子子孫々に至るまでの事実上の永代の身売りつまり奴隷である譜代奉公、身代金を支払って請戻す本金返年季奉公、借金担保人質として奉公人を金主に渡し質流になれば上記の譜代奉公に転じる質物奉公、そして年季を定めた年季奉公があった[26]

江戸時代前期の主流は先祖から奴婢下人の系譜を引く者や刑罰,年貢未納,永代身売り,誘拐,人質の質流れ等に因る終身又は永代の永年奉公や譜代奉公で、後期の主流は農村から都市への様々な形式の身売りに因る年限を限って売られた流入民であり、共に奉公人は人身売買の対象となったが、後者はより雇用関係要素が強い。


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