農奴
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教会法は「貧しい者は余裕のあるものから支援される権利がある」という立場をとっていた[10]
領主

荘園保有層、貴族教会騎士

農奴

家族の形成、住居や耕具、財産の所有は認められる

耕作した土地の耕作権(占有権)は相続できる

領地外への転居、職業選択の自由はない(自由権は領主に金銭を支払うことで取得できる)

不作時に領主からの生活支援が得られる

農奴は賦役の義務や、領主、教会に対して税を払う義務があった。
荘園の形態
古典荘園

直営地での賦役がある荘園

一部農民の保有地も認められるが、直営地への比重が大きい

純粋荘園

直営地より、農民の保有地からの生産物地代、貨幣地代にウエイトを置いた形態

生産力と農奴の地位の向上

地代の支払方法
労働地代
領主直営地において耕作に従事することで地代を支払う方法(賦役)労働の果実たる生産物はすべて領主のものになるため、農奴の生産意欲は低い
生産物地代
自分の農場で生産される農産物を一部納める事によって地代を支払う方法(貢納)物納した後の残った生産物は自分の物となり、自由に経済活動に使えることで、農奴の意欲の上昇をもたらす
貨幣地代
物納を廃し、貨幣によって地代を納める方法貨幣経済の発達による。社会の経済活動が活発化される
ヨーロッパにおける農奴制
概要

中世ヨーロッパにおいて、この時代の人は基本的に「祈る者」(=聖職者)、「戦う者」(=戦士的貴族)、「働く者」の 3 つの身分から構成されると考えられていた。封建的支配身分である前2者は、農民からの収奪の上に生活と活動が成り立った。この収奪は強制であり(経済外的強制)、収奪構造の維持のため、農民の土地への拘束や社会的・身分的な拘束を伴った。

農民の標準的な身分である農奴は、土地保有者である封建領主に人身的に隷属し、移動の自由をもたず、また、領主によって恣意的に課税されたが、古代の奴隷とは異なり、個人の財産を保有し、婚姻するなどの権利を有していたとされる[11]。そのためマルクス経済学における史的唯物論経済発展段階説)においては、中世封建制(農奴制)は、古代奴隷制よりも高次の発展段階と規定された。

西ヨーロッパにおいては、中世後期の貨幣経済の進展とともに自作農民化していった[11]

松原久子は「産業革命以前のヨーロッパの農民」の姿、生活として、「貴族の主人や大地主から搾取され、殴打され、もっと収穫をあげろといつも鞭で叩かれる農奴である。・・。藁の上に寝て、涙を流しながらパンを食べ、やっと一年に一度新しいズボンを、五年に一度一足の靴を手に入れることができる人たち。生涯一度も風呂に入らず、自立することなど考えたこともなかったから、読むことも書くこともできない人たち」[12] と述べている。
西ヨーロッパ地域

西ヨーロッパでは、荘園領主と荘民との関係がしばしば問題とされたが、その解決に慣習法としての荘園法: Hofrecht))が示され、荘民の生活を律するまでに及んだ。その隷属的な身分は世襲とされ、農作以外の賦役労働や、フランスでは土地を離れることを防止するためのフォルマリアージュ(結婚税)、荘民が生活上で得た家畜や衣服などの動産財産を荘民死亡時に無条件に没収するマンモルト(死亡税)なども制度化されていた。

フランスやイングランドなど西ヨーロッパでは時代が下るにしたがって地代の支払い方法が、労働地代→生産物地代→貨幣地代と変わっていき、中世の終わり頃までには農奴制は解消されたとされる。
東ヨーロッパ地域

一方エルベ川以東の東ヨーロッパでは、中世末期において封建領主が農民の自由な移動を禁じるなど、農民に対する支配を再び強化させた。大航海時代以降は、西欧で商工業の発展が進む中、東欧は西欧に対する穀物供給地としての役割を果たした。こうして、西欧経済と結びつけられた形で、農奴制的な状況が創出された。
オーストリア

18世紀後半、東欧各国で啓蒙専制君主が出現して近代化政策を推進した。オーストリアでは皇帝ヨーゼフ2世が、1781年に農奴解放令を出して農奴制廃止を図ったが、貴族など抵抗勢力の反発を招き改革が頓挫したため、事実上農奴制は温存された。最終的には1848年革命によって農奴制は廃された。
プロイセン

プロイセンの農民は、王領地の農民、貴族の農場領主制の下におかれた世襲隷属民、西欧的な自立性の高い農民の3つに類型化できる。1807年ナポレオン・ボナパルトに敗北した屈辱から始まった一連のプロイセン改革で、これらの農民に対する土地売買の自由などが規定され、職業選択の自由など人格的自由が確立した。

これらの改革は地主本位のものであり、農民は人格的自由は手に入れたものの、土地の多くは地主に与えられた。地主層は労働力を隷属農民から農業労働者に切り替え、資本主義経済に適応していった。こうしたことから、プロイセンでは土地貴族(ユンカー)がのちまで政治、社会の中心となった。
ロシア詳細は「ロシアの農奴制」を参照

中世のロシアでは、秋の「聖ユーリーの日」の前後2週間に限って合法的な移転が認められた。ただし、自己の領主に対して負債を抱えている場合には権利を行使できなかったため、実質上土地に拘束された状態であった。ところが、15世紀に入ると富裕な領主が負債を肩代わりする代わりに農民を自己の領地に引き抜くようになったことで中小領主の農地経営が圧迫されたことが社会問題化した。15世紀末にイヴァン3世が農民の移転を制限した法典(1497年法典)を定めると、のちのイヴァン4世も同様の法令を定め、領主による逃亡農民に対する無期限の捜索権と引き渡しの権利を認めるようになった。最終的には、17世紀に成立したロマノフ朝の初期(1649年)に制定された会議法典によって、農奴制の立法化が完了した。歴代皇帝は、ピョートル1世にみられるように、近代化を推進する財源を確保する必要性から(農奴制自体は近代化から逆行するが)農奴制を強化していった。


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