農奴制
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農民の標準的な身分である農奴は、土地保有者である封建領主に人身的に隷属し、移動の自由をもたず、また、領主によって恣意的に課税されたが、古代の奴隷とは異なり、個人の財産を保有し、婚姻するなどの権利を有していたとされる[11]。そのためマルクス経済学における史的唯物論経済発展段階説)においては、中世封建制(農奴制)は、古代奴隷制よりも高次の発展段階と規定された。

西ヨーロッパにおいては、中世後期の貨幣経済の進展とともに自作農民化していった[11]

松原久子は「産業革命以前のヨーロッパの農民」の姿、生活として、「貴族の主人や大地主から搾取され、殴打され、もっと収穫をあげろといつも鞭で叩かれる農奴である。・・。藁の上に寝て、涙を流しながらパンを食べ、やっと一年に一度新しいズボンを、五年に一度一足の靴を手に入れることができる人たち。生涯一度も風呂に入らず、自立することなど考えたこともなかったから、読むことも書くこともできない人たち」[12] と述べている。
西ヨーロッパ地域

西ヨーロッパでは、荘園領主と荘民との関係がしばしば問題とされたが、その解決に慣習法としての荘園法: Hofrecht))が示され、荘民の生活を律するまでに及んだ。その隷属的な身分は世襲とされ、農作以外の賦役労働や、フランスでは土地を離れることを防止するためのフォルマリアージュ(結婚税)、荘民が生活上で得た家畜や衣服などの動産財産を荘民死亡時に無条件に没収するマンモルト(死亡税)なども制度化されていた。

フランスやイングランドなど西ヨーロッパでは時代が下るにしたがって地代の支払い方法が、労働地代→生産物地代→貨幣地代と変わっていき、中世の終わり頃までには農奴制は解消されたとされる。
東ヨーロッパ地域

一方エルベ川以東の東ヨーロッパでは、中世末期において封建領主が農民の自由な移動を禁じるなど、農民に対する支配を再び強化させた。大航海時代以降は、西欧で商工業の発展が進む中、東欧は西欧に対する穀物供給地としての役割を果たした。こうして、西欧経済と結びつけられた形で、農奴制的な状況が創出された。
オーストリア

18世紀後半、東欧各国で啓蒙専制君主が出現して近代化政策を推進した。オーストリアでは皇帝ヨーゼフ2世が、1781年に農奴解放令を出して農奴制廃止を図ったが、貴族など抵抗勢力の反発を招き改革が頓挫したため、事実上農奴制は温存された。最終的には1848年革命によって農奴制は廃された。
プロイセン

プロイセンの農民は、王領地の農民、貴族の農場領主制の下におかれた世襲隷属民、西欧的な自立性の高い農民の3つに類型化できる。1807年ナポレオン・ボナパルトに敗北した屈辱から始まった一連のプロイセン改革で、これらの農民に対する土地売買の自由などが規定され、職業選択の自由など人格的自由が確立した。

これらの改革は地主本位のものであり、農民は人格的自由は手に入れたものの、土地の多くは地主に与えられた。地主層は労働力を隷属農民から農業労働者に切り替え、資本主義経済に適応していった。こうしたことから、プロイセンでは土地貴族(ユンカー)がのちまで政治、社会の中心となった。
ロシア詳細は「ロシアの農奴制」を参照

中世のロシアでは、秋の「聖ユーリーの日」の前後2週間に限って合法的な移転が認められた。ただし、自己の領主に対して負債を抱えている場合には権利を行使できなかったため、実質上土地に拘束された状態であった。ところが、15世紀に入ると富裕な領主が負債を肩代わりする代わりに農民を自己の領地に引き抜くようになったことで中小領主の農地経営が圧迫されたことが社会問題化した。15世紀末にイヴァン3世が農民の移転を制限した法典(1497年法典)を定めると、のちのイヴァン4世も同様の法令を定め、領主による逃亡農民に対する無期限の捜索権と引き渡しの権利を認めるようになった。最終的には、17世紀に成立したロマノフ朝の初期(1649年)に制定された会議法典によって、農奴制の立法化が完了した。歴代皇帝は、ピョートル1世にみられるように、近代化を推進する財源を確保する必要性から(農奴制自体は近代化から逆行するが)農奴制を強化していった。しかし、民衆は激しく抵抗してより豊かな南部などへの逃亡を図るものも多かった。更に南部のドン・コサック軍は慣習法をたてに逃亡者の引き渡しに応じなかったために、彼らの軍事力に依存する部分が多かったロマノフ朝を悩ませる原因となった[13]1856年クリミア戦争における敗北によって近代化の必要性を痛感したアレクサンドル2世が、1861年農奴解放令を出したことで農奴制は廃された。
日本における農奴制

律令制度では五色の賎は百姓の3割を占めており、私奴婢は子孫に相続させることが可能であった。

室町期の在地領主などが欠落(かけおち)した百姓、下人などを連れ戻すことがあった。百姓は年貢を完納している場合、もとの領主に拘束されることはなかったが、下人は無条件に本主の下に戻された。

戦国時代、下人だけでなく百姓の人返しが分国法、人返し令書、朱印状として発布され、欠落の返還が拡大、強化された。

豊臣政権は兵農分離態勢を確立するために太閤検地、人身売買禁止令、人返し令、武家奉公人身分統制等の政策を推進したが、これらの政策によって生産構造が奴隷制から農奴制に移行したとみなされ、中世から近世への時代区分になったとされている[14][15]。「人身売買禁止令は、中世奴隷制から近世の農奴制へと日本社会を発展させた革命的な政策の一つと見なされることになった」[16]

江戸時代に入ると逃散は厳しく禁じられ、移住も原則として認められなかった。

江戸時代の平均的農民は幕藩領主によって土地緊縛されているところから、広義における農奴とみなし、生産物地代負担という点から、狭くは隷属とする定説が広く認められている[17]

1557年、ガスパル・ヴィレラは日本には貴族と僧侶、農民の社会階層があると論じ、貴族と僧侶は経済的に自立しているというが、農民は前二者のために働き、自分たちにはごくわずかの収入しか残らない奴隷状態にあると述べている[18]

ポルトガル人は日本社会での農家使用人(小作人)を奴隷に分類した。コスメ・デ・トーレスは日本の社会について以下のように語っている。(日本の社会において)使用人(小作人)や家内奴隷は地主に仕え、ひどく崇拝する。なぜなら、どんな質の高い人でも使用人に不従順なところがあれば、殺してしまえと命令するからである。そのため使用人たちは主人にとても従順で、主人と話すときは、たとえとても寒いときでも、いつも頭を下げてひれ伏している[19][20]

コスメ・デ・トーレスは日本人の主人は使用人に対して生殺与奪の権力を行使することができるとして、ローマ法において主人が奴隷に対して持つ権利 vitae necisque potestas を例証として使い、日本における農民等の使用人の地位は奴隷のものであるとした[21]。このように日本における小作人の地位は農奴ではなく奴隷とされた。

中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、武家の検断人から自分や他人を人質として差し出すことを求められ、税金を全額完納出来ない場合は全ての資産家財を没収した上で人質が売却され奴隷身分へ落とされる等、農民から奴隷への身分落ちは普遍的に認められ、中世前期農村では農家の存続する平均世代数が3?4代である等、農家の維持は簡単な事では無かった[22]
下人と所従

戦国時代に来航したポルトガル商人は主従関係に拘束され自由でない身分を奴隷と考えており、ポルトガル人の理解する奴隷には様々な身分が含まれたことが指摘されている[23][24]。それでは彼らが日本人の奴隷と考えたのは日本のどのような身分の者であったのか。……『日葡辞書』をみると、奴隷を意味する criado, servo とか captivo の語は、Fudaino guenin(譜代の下人)、Fudaino mono(譜代の者)、Fudasodennno mono(譜代相伝の者)、Guenin(下人)、Xoju(所従)、Yatcuco(奴)等の語にあてられている。彼等が日本の奴隷と解した、譜代の者とか譜代相伝とか称せられた下人や所従は、終生或は代々に渡り、農業労働や家内労働に使役されていたし、実際国内では人身売買の対象となっていた[23]。 ? 人身売買 (岩波新書)、牧 英正、1971/10/20, p. 60

奴隷という用語が労働形態、社会集団を隠蔽することで、ポルトガル人が理解していた奴隷の概念の詳細が把握されてこなかった。ポルトガル語で「奴隷」という語は一般的に「エスクラーヴォ escravo」と表される。日本でポルトガル人が「エスクラーヴォ」と呼ぶ人々には、中世日本社会に存在した「下人」、「所従」といった人々が当然含まれる。しかし、日本社会ではそれらと一線を画したと思われる「年季奉公人」もまた、ポルトガル人の理解では、同じカテゴリーに属した[24]


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